新たなる「知」のパラダイムを求めて
−「知」の創造のインキュベーターとしての大学像−

関西学院大学 大学院 総合政策研究科  山本龍彦
●混迷する「知」の体系と構造の検証
●「知」のデパートで塹壕化する「知」
●学際からクロスボーダーな「知」へ
●はじめに

 この小論は、世界の明日を拓く新たな「知」のパラダイムと、そのインキュベーターであるべき大学の未来像について論究するものである。先ずその前提として「知」の体系と構造を見直して再確認すると共に、それに対して混迷する「知」の現況を比較考察してゆく。そして次代を創造する「知」がクロスボーダーな複数の視座と価値観、つまり学際性から生まれる事を確認すると共に、その為の方法論についても言及してゆくものである。

●混迷する「知」の体系と構造の検証

 このパートでは「知」の体系、即ち学問の構造を再確認すると共に、それを現在の混迷する「知」と現実とのコンフリクトとを比較考察し、あるべき「知」の未来像を提示する。 人工物工学を提唱する吉川弘之氏は技術と科学の関係を次の様に説明する。例えば「旨い目玉焼き」を作る為には、どんなフライパンでどの様な角度で卵を割り入れ、更に何度の熱で何分間熱すれば良いかのノウハウが必要で、我々は経験でそれを手に入れる事が出来る。このノウハウという「経験知」が技術の方法論である。そして科学は何ゆえに、そうすれば「旨い目玉焼き」ができるのかを「理論知」に変換して説明する原理である。[1]

 熱力学や流体工学がこれに該当し、また何ゆえに旨く感じるのかは脳生理学や認知科学が説明してくれる。だがこの「何ゆえに」を無限遡及してゆく時に我々はアポーリアに直面する。科学には限界があり究極の「何ゆえに」、に対する解答を持てないからである。

 そこで我々はその「何ゆえに」、に代えてその「意味」を問いかけてゆく。食べる事の意味や味わう事の追求。そしてそこから発展して「生きる事」の「意味」や「本質」への問いかけ、それは存在論や認識論という哲学となる。更にそこから自ずと、我々の「生」における規範−飽食や過度の美食の戒めへの方向付け−が生まれる。これが倫理学であり、またそこから逆に、それ故に我々はかくあるべし−例えば世界の飢餓を低減する為に過剰な食物ストックを放出しよう−という指針が誕生する。これがポリシーである。以上が「知」の体系と構造であると考えられる。そしてそれらの「知」がクロスボーダー的に交錯して連携し補完しあいながら、恰もシンフォニーの様な妙なる響きを奏でて「知」のシュポシュジュオンを形成する事が、世界に新たな「知」を発信する大学の理想であろう。

 だが現代の「知」が混迷し迷走している事は、環境問題ひとつをとってみても明白である。環境問題の根底には文明への盲目的信頼、つまり科学と技術への無批判性が存在する。言い換えれば哲学や倫理学、そして学としてのポリシーの不毛が根底に横たわっている。また産業の発達によって生産過剰となった、商品を流通させる為に編みだされた、マーケティングという手法と学への、思想側からの問題提起の無さも指摘できよう。マーケティングの発達によって大量消費時代が出現し、それがまた環境問題の一因ともなったのだ。

 そして一般大衆の側から生起した公害反対運動や環境問題へのプロテストこそ、この様な文明のあり方や、科学技術への大衆側からの問題提起であるとも考えられる。彼等のその無意識下にあるのは、現代の「知」への異議申し立てだと言って過言ではないだろう。

 またビジネスマン用のツールとして開発されマーケティングされたポケベルや携帯電話が、その企業の思惑とは裏腹に女子高校生を中心として若者たちに大ヒットした裏には、マーケティングという手法の大衆側の独自の「読み」が暗黙裏に存在するのである。[2]

 環境問題は決して経済的な視座のみから論じられるべきではない。それは文明のあり方や我々の世界観、つまりコスモロジーを反映したものであるが故に少なくとも比較文化・比較思想、そして宗教学をも抱合した複数の視座の学術分野から論じられねばならない。 また効果的マーケティングの追求だけでは上述の環境問題の様な問題を惹起しかねないし、またマーケティング本来の目的である、企業のより良き存続自体をも脅かす。マーケティングは本質的に諸科学の成果の集合体であり、それを経営学という視座から再統合したものだが、それは更に社会学や文化論と対話させながら止揚させてゆかねばならない。 大学は本来、諸科学の「知」を統合し、それらを止揚して更なる「知」へと昇華させてゆく権利と義務、また機能と役割を持つ存在なのである。そしてその為にユニヴァーシティという概念があると言って過言でない。だが「知」の統合は「知」の陳列に取って代わられ、大部分の大学は「知」のデパートメント・ストアと化した。「知」が迷走している事は環境問題に象徴される現代のアポーリアが例証する。「知」が混迷しているのである。

●「知」のデパートで塹壕化する「知」

 諸科学の対話から生まれる、未来へと繋がる「知」の探求こそが大学本来の使命と役割であるにも係わらず、大部分の大学は学部学科を拡大する事のみの「知」のデパートと化し、各々の学はその中で塹壕化し、専門性という名の砦に立て籠もって孤立化している。

 他の学問領域との連携や協力、そして補完性はその神聖性を侵すインベーダーとして排斥されるのが現状である。例えば、海外ビジネスにおける異文化コンフリクトの解決方法を研究する私の友人が、某経営学系社会人大学院のマーケティングの授業を聴講した時の事であるが、彼の研究テーマである異文化コンフリクトとマーケティングの関係について質問したところ、講師から(他大学からの兼任講師だった)「ここはビジネススクールであって、その様な話題はこのクラスには相応しくない」といって拒否されたという話である。

 上述の様に現代の抱える諸問題は、環境問題ひとつをとっても単子眼的な発想ではその全貌は捉えきれないし、またその故に解決策も見つからない。環境問題が文明のあり方の問題である様に、企業のマーケティングも国際化している現代にあっては、ビジネスとはいえ、様々な文化の摩擦の問題を避けては通れない。いやむしろ異なる国の文化の本質を理解する事こそビジネスの成功に繋がることは、例えばカナダのツーバイフォー住宅が我が国で失敗した事例が証明する。逆にアメリカ人のライフスタイルを理解してインスタント・ラーメンからカップ・ヌードルへとコンセプトを転換して成功した例も存在する。

  「汝自身を知れ」は素晴らしい格言ではあるが、自らを蛹であると信じこんで疑わない蝶には大空を飛翔する日は永遠にやってはこないのだ。そして塹壕に閉塞された「知」はまた、その専門性すら脆弱なものにしかねない危険性を孕んでいる事は、上述の環境問題やマーケティングの例で証明できよう。我々は今こそ塹壕から這い出て「知」の最前線へと果敢な突撃を試みなければならない。大学は「知」の百貨店であってはならないのだ。 だがそれは単にひとつの学問を極めるのさえ大多数には非常に困難であるのに、複数の学問領域の専門家になる事なのだろうか。いやそうではないのだ。それは複数の異種の学問領域の発想や価値観を取り入れる事なのであり、またそういう研究を支援するシステムを大学という場に構築する事なのである。この具体的方法論については後述するが、いま言える事は「知」のクロスボーダーをシステム化し構築して支援する体制の必要である。 例えば私の研究テーマは広告という表象を素材とした、現代という大衆文化・大衆消費社会の構造の研究、つまり広告を媒介とした近代の価値観と、その検証から生起する近代の超克の方法論の研究であるが、実はこの研究にジャストフイットした学科は存在しないし、また専門とする学者も殆どいない。幸い、学識深い指導教授の理解のもと、苦しくも楽しく研究は進展している。だが例えばその研究の為に、広告の表象文化論的側面、或いは記号論的な面からのアプローチを身につけようとすれば、ほとんど独学に近くなる。  もちろん、研究はあくまで独学ではあろう。だがそれは大学院生レベルの知的腕力を必要とし、また回り道や迷路、そして難儀な隘路も多いのである。一般学部生では、これは困難な道である。そしてその困難さ故に彼等が学問という世界の醍醐味を味わえないとすれば教える側も心外、というよりも大きく言えばこれは国家的損失でもある。総合大学という美名のもとに「知」のフロンティアをデパート化させ、塹壕化させてはならないのだ。

●学際からクロスボーダーな「知」へ

 また一方で統合され止揚されるべき様々な「知」が、あるものは互いに没交渉で不干渉であり、あるものは対立してコンフリクトを起こしているのである。これは特に実学の分野に多い。それは経験知と理論知、暗黙知と形式知の対立であり、コンフリクトである。

 例として私の本職である広告デザインにおける教育、即ち「知」の統合を考えてみる。デザイン教育は主として美術系大学で行われる。その美大における教員とは、実際のデザインの現場を経験していない人が殆どなのである。また美大における教育も実は現場では通用しないものが殆どなのは自らの経験でも証明できる。そこで美大では、その卒業生でデザイナーとして成功した人を非常勤の講師として実務教育をしているのが現状である。

 つまりデザインの実務におけるノウハウという実践的な「知」が、暗黙知と化して個人の中に秘匿され、美大というアカデミズムの場では形式知として共有化されていないのだ。またこの様な教育の中で学生たちは次第にアカデミックな理論知や形式知を役に立たないものとして疎かにし、即戦力となるノウハウのみの習得に傾いてゆくことも事実である。

 ところが、その実践的な「知」だけではやがて行き詰まる。そしてその時に、かつて疎遠にしていたアカデミックな理論知や形式知が役立つ事に気づいて愕然とする。学生当時には、何の役に立つのだろうかと敬遠していた、そのアカデミックな「知」の普遍性こそが、自らの人生の新たな一頁を開いてくれる力を内包している事に目覚めるのである。

 多くの大人たちが述懐する「学生時代にもっと勉強しておけば良かった」という後悔の念の奥には、この相反する性格を持つ「知」の没交渉とコンフリクトが存在する。そして今日の社会人大学院生の増大の理由の根底にもこの問題が存在する。実践のノウハウだけでは飛躍がない事は何もビジネスの世界の話だけではない。経験から生まれる実践知と理論知、暗黙知と形式知は補完性を持ち、その対話から止揚されてこそ真の「知」となる。

 そして問題は上述の美大の例を象徴として、あらゆる方面の分野で同様の事が起きている事である。経済学や経営学という比較的実践的であると考えられる分野においても、この経験的な実践知である個人的な暗黙知と、アカデミックで普遍的な理論知や形式知とのズレが生じる。だが普遍的でアカデミックな「知」こそが我々の新たな「知」を生む基礎であり、原動力である事は上述の例でも明白である。人生や次代の「知」を拓くものもまた、その「知」に他ならない。相反する「知」が対話を通して止揚されねばならないのだ。 必要な事はこれらの複数の「知」の価値と発想を架橋してゆくクロスボーダーな視座からの発想とその為のシステム作りである。冒頭で述べた「旨い目玉焼き」の例で言えば、技術という「知」、つまりhowだけでは普遍性がなく応用が効かない。またそれは個人的な経験に基づく暗黙知であるが故に形式知に変換して共有化する事が困難である。そこに科学の持つwhyという説明原理の「知」が結合する事によって、その「知」は普遍性を獲得して応用力を持ち、またその事で「知」は形式知に変換されて共有化される。「旨い目玉焼き」は「旨い卵焼き」へ、そして更に「旨い料理」へと発展してゆくのである。[3]

 またそのhowとwhyが生みだすknow howに加えて、そこから生まれる「知」のあり方と、その「意味」を問う「知」、即ち広い意味の哲学が加わってこそ、この「知」は更に止揚され、また人類にかけがえのない、次代を拓く「英知」となる事は前述の環境問題の議論で例証できるであろう。逆に言えば単独で孤立する個別の「知」は必然的に完全なものではなく、我々はその各々の「知」の及ぶ限界性を謙虚に認識すべきなのである。

 この時点でクロスボーダーな「知」は真摯な研究者、いや学生を含めた全ての知的職業に従事する者の必然的要請となり、また義務となる。我々は「学際」の「際」を超えて進まねばならない。いや寧ろその「学際」の「際」を生起させているものは自らの分別心、つまり様々な現象を区分けして差別する人間の性情にある事を見極める必要がある。[4] かつては哲学が総合的な学問として存在し、そこから様々な「学」が分派独立して今日の諸学の形成に繋がった。大学もまた学部学科の増設が顕著である。つまり、神・文・法・工・理などの一文字の学部から、経済・社会・経営などの二文字の学部構成へ、そして総合政策学・総合人間関係科学・発達科学などに代表される多文字の学部学科への変容である。 この現象が意味するものは、かつての単文字で構成される学部だけでは扱う事が困難な、複雑で多面的な問題が現代には頻出してきた事である。だが皮肉な事に、この長い学部名の学生よりも単文字、或いは二文字学部の学生の方が学術的な満足度が高いという結果が存在する。塹壕に籠もる事は心地よく、また取りあえずの成果も出し易い。だが新しい学部もまた、ひとつの塹壕と化す危険性を内包し、それはまた我々の本質的な性情に根ざす。

■註記
[1]吉川弘之「人工環境はどうあるべきか」『デザインの未来像』所収 日本デザイン機構編 晶文社1996年76頁 逆に言えば科学的知識だけで「旨い目玉焼」を作る事も不可能なのである。両者はあくまで補完しあって意味がある。
[2]石井淳蔵『マーケティングの神話』日本経済新聞社 1993年 38〜39頁
企業によるマーケティングの成功例とは往々にして商品のヒットの後に意味付けられた神話ではないかと指摘される。
[3]野中郁次郎他『知識創造企業』梅本勝博訳 東洋経済新報社 1996年 92〜93頁
個人の暗黙知を形式知に変換して共有化する事こそが企業に要請される知識創造であり価値の創造であると指摘する。
[4]分別とは仏教の基本的タームであり原語はサンスクリットのvikalpa即ち対象を思惟して識別して判断する作用を言う。我々は生存の為に世界を分別する事で生きているが、その区分けと差別の諸相が逆に可能性を限定するのだ。

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