私たちは「創」り得るか

関西学院大学文学部哲学科 2年 天野真将

 

私たちは、日々の生活の中でいろいろなものをつくっている。お腹が空けば食事をつくり、学生は単位を取得する為にレポートを提出期限までにつくる(少なくともその努力はする)。また個人的な趣味で曲をつくる人もいるだろうし、公共の目的の為に橋や道路がつくられる。私たちを取り巻くもののうち、人間によってつくられていないものはない、といっても言い過ぎではない。私たちは遥か昔には生存の為に、そして近頃は生活の便利のために、様々なものをつくってきた。何かをつくることは私たちの生活を支えている、というより、それは私たちの生活の一部であり、ある意味では生活そのものである。食事をつくらなければ飢え死にし、レポートをつくらなければ卒業できず、趣味の曲づくりを止めてしまえば退屈し、橋や道路をつくってもらわなければ私たちはやはり困る(もっとも、時にはつくる必要のない橋や道路がつくられることによって、おもに納税者が困ることはあるが)。

しかし、これらの「つくる」という言葉を聞いて私たちが想像するものには、二種類あるのではないだろうか。それはつまり「神がこの世界をつくった」というときの「創る」と、「私がこのケーキをつくった」というときの「作る」である。英語にすると、後者が単なるmakeであり、前者はcreateであるが、この「創る」あるいは「創造する」というのは、無から有をつくるというニュアンスがある。神がこの世界をつくったとすると、これはおそらく何も無いところからつくったのだろう。それはもちろん、神が世界すべてを生み出したのであり、神がつくる以前に何かがあったということは決してないからである。だから、もし神がケーキをつくるとしたら、おそらく何も無いところからパッと生み出すはずである。だから神は、私たち人間とは違い、わざわざクリームやら土台となるスポンジやらを買いに行く必要も無いし、手をクリームだらけにする必要も無い。そう、私たちは「何も無いところからパッと生み出す」ことは出来ない。私たちは既に与えられている何かの形や性質を改変することしか出来ない。いわば、私たちには「創る」ことは出来ず、単に「作る」ことしかできないのである。

もしそうなら、人間にはいわゆる創造性というものはないのだろうか。例えば何か文章を書くという行為はどうだろうか。私は今まさに文章を書いている(より正確には、画面を睨みつけながらキーボードを叩いている)のだが、これは創造的であるように思われる。ところが、私が繰り出す言葉の一つ一つは、実はどこかの誰かが話しているのを耳にしたり、誰かが書いたものを目にしたりして覚えてきたものであり、そういう意味で言えば、私が文章を書く為にはやはり、書く以前に、既に与えられている「言葉」という材料が必要なのである。こう考えると、ケーキをクリームやスポンジから作り出すのと変わらないではないか、ということになる。下手をすれば私は、ここに書いてある一つ一つの言葉どころか、一つのフレーズ、一つの文をどこかで聞いたり読んだりして、それをそのまま使って文章を書いているのにも関わらず、「ああ、今この瞬間に私の手によって名文が創造されているのだ」などと粋がっているだけなのかもしれない。いや、フレーズや文どころか、この手の内容の文章をどこかで読んだことがあって、それをすっかり忘れているだけなのに、さも新しい文章を書いているような気になっていることもあり得る。絵を描く為には予め絵の具と、画材の使い方や構図、色の使い方についての知識が必要であり、作曲する為には五線譜とその上に並べられる音符記号、その記号の意味を身につけることなどが欠かせない。結局、私たち人間には創造性などなく、私たちが「創」ったと思っているものは、私たちががどこかで既に経験してきたことを基に、そこから「作」ったものにすぎないのである。

また、これは科学についても言えることである。科学の分野においては、これまで様々な理論がつくられ、また現在も次々とつくられている。そしてこのような積み重ねの上に成り立つ現在の科学体系は、常に進歩し続けていて、昔の科学体系よりも優れたものである、ということになっている。私たちの日々の生活における科学への依存度は日に日に増している。これはもちろん、依存するに足りるだけの信頼性を科学が持っているからである。現在の科学は、過去の科学より優れている。そしてこれは、現在の科学のほうが過去の科学よりもこの世界とこの世界で起こっている現象をより正確に描いているからである。新しい理論がつくられるとき、それは古い理論の誤りを指摘し、少なくともその古い理論よりはるかに多くのことを、矛盾なしに説明することができる。では、私たちは科学理論を「創」っていると言えるのだろうか。私たちは科学という分野において初めて、先ほど儚くも否定された創造性を手に入れることに成功したのだろうか。

科学理論は世界とそこで起こる現象を記述したものである。 この頼もしい科学理論もやはり、何も無いところからつくられたものではない。すなわち、科学理論は記述の対象である世界と、それを記述する手段としての科学用語を材料として必要としているのである。世界とまったく無関係な科学理論などあり得ないし、そもそも記述である以上、それを記述する為の方法は不可欠である。これは、絵を描く為に絵の具が、作曲するのに五線譜がそれぞれ必要であることと何ら事情は変わらない。我らが科学も、悲しいかな私たちの創造性を保証してくれるものではない。やはり私たちには創造性などなく、今与えられたものを上手にやりくりしていくことしかできない。所詮、創造性を欠いた私たちは「創」り得ないのだ。

 

というのは果たして真実だろうか。

 

確かに私たちは、神のように何も無いところからなにかをを創り出すことは出来ない。これは以上に挙げた通り、認めざるを得ないだろう。しかし、このことが人間の創造性を否定することになるのだろうか。このことを確かめる為に、「創る」という言葉の定義についてさらに考察を進めることにする。

神は何も無いところから世界を創り、神が創る前には何も無かった。するとこれは、これまでに無かったものを新しくつくったということになる。さてここで、私たちがクリエイティブすなわち創造的であると考えている芸術の分野の人間代表として、ダヴィンチを挙げることにしよう。彼はかの有名な「モナリザ」を描いた画家であり、また様々な機械を考案した技術者でもあった訳だが、ここでは彼の描いた絵だけを取り上げる。もちろんこのダヴィンチの手による絵は、キャンバスの上に油絵具で描かれており、しかも、そっくりそのまま同じ姿を描いたという訳ではないが、一応モデルとなる女性がいたようである。先ほどの「創る」の定義から言えば、この絵は「創」作ではない。ダヴィンチがある日ある瞬間に、何か魔法のようなものを使って何も無い空間にぱっと「モナリザ」を完成させた訳ではないのだから、「何も無いところからつくる」ことを「創る」と定義するならば、確かにダヴィンチは「モナリザ」を「創った」とは言えないだろう。しかし、「モナリザ」は新しかった、すなわち、ダヴィンチがそれを描く以前にはまったく存在していなかった。ダヴィンチの絵筆によって「モナリザ」は初めて姿を現した。だからこそ、私たちはダヴィンチの「モナリザ」を創造性ある作品であると見なすのである。では、この「創造」をどのように定義すればようだろうか。

ダヴィンチの用いたキャンバスや絵具は、ダヴィンチが絵を描く以前からあったし、また「モナリザ」のおおよそのイメージを決定するモデルの女性も、描く以前からいた。では、ここで新しいもの、ダヴィンチの創造性を示すものは何だろうか。確かに、画材やモデルは既存のものである。しかし、その絵はダヴィンチ以前には無かった。ここに私たちはダヴィンチの創造性を見て取るのである。すなわち、ダヴィンチは既存の画材と既存のモデルを、「モナリザ」という一枚の絵画において新しく組み合わせたのである。このような既存のものの新しい組み合わせ、これこそダヴィンチの創造性が生み出したものであり、私たちすべてに潜在的に具わる創造性(もちろんダヴィンチほどではないにしても)が生み出し得るものなのである。絵の具の新しい組み合わせが絵画における創造であり、言葉あるいは文字の新しい組み合わせが文学における創造であり、音符記号の新しい組み合わせが音楽における創造である。

ところで、子供は時に突拍子もないことを言って大人を驚かせるが、この驚きは、その子供が大人にとって思いもよらない言葉を組み合わせて使ったことから来る。大人は言葉の使用について経験を積んでいるがゆえに、言葉をより正しく用いることが出来る反面、ありふれた言葉使いしか出来ない。このように、経験というのは、社会生活を可能にするという利点がある一方で、創造性を奪うという欠点もある。よって、創造性がより発揮されるのは、個人的な経験を越えた領域であると言えるだろう。

これに対し、もう一つのつくる、すなわち「作る」とはどういうものなのだろうか。それはおそらく、「創る」とは違い、創造性をそれほど必要としないもの、例えば「食事をつくる」時は、おそらく「作る」ほうだろう。料理の初心者は、料理の本を見ながら恐る恐る料理を作り、料理を作り慣れている人なら、自分の経験を基に自信を持って料理を作る。しかし、前者は一度誰かが作ったことのある料理を真似て料理を作っているのだし、また後者は自分が何度か作った経験から料理を作っているからこそ自信を持ってやっている。つまり両者ともある意味では、過去に出来上がっている(前者は自分以外の誰かがつくった、後者は自分自身がつくった)ものを模倣している、と言えるだろう。もちろん同じ料理でも、今までに誰も作った(あるいは創った)ことが無い料理をつくったなら、それは創造性を認められるという点で「創った」と言える。このように、「作る」とは、模倣することであると定義できるだろう。

私たちは時に、「これはつくりモノだ」という言い方をする。この「つくりモノ」とは、要するに本物ではないモノを意味している。例えば造花は、本物の花ではなく、本物の花の姿をプラスチックや布などを使って、似せて作った花のことである。言いかえれば偽物であり、「似せモノ」である。とすると、「作りモノ」は「似せモノ」であり、「作る」とは「似せる・模倣する」と同じような意味で用いる事が出来ることになる。だから、先ほど絵画の創造性について触れたが、「モナリザ」の贋作や模写は「似せモノ」であり、どんなに似せて描かれていても、ここに創造性は認められない(贋作や模写の価値は、創造性にあるのではもちろん無く、「モナリザ」を十分に観察する眼と、それを正確に再現してみせる技巧にある)。また、もしそこに何らかの創造性が認められるならば、その画家の創作が加わっていることになり、これはもはや「モナリザ」ではなく、その模写でもない。その画家は、「モナリザ」という既存の材料を使って、なにか新しいものを「創った」のである。

また私たちは、表情を作ったりもする。楽しくも無いのに笑ってみせたり、すねた振りをして口を尖らせたりする。さらに顔作りの達人ともなると、涙を流してみせることすら可能だ。これらは全て、本物の笑い、本物のふてくされ、本物の悲しみを似せて、自分の顔の上に模写したものである。本当に楽しいときに自然と出る笑みは、意図的に作られたものではない。「作る」は意図による行為であり、従って無意識に出る笑みや涙は、作られたものとは言えず、従って「似せモノ」ではなく本物である。(ところで、神は世界を創るついでに人間もつくったのだが、神は自らの姿に似せて人間をつくったということである。すると奇妙なことに神は、世界をまったく新しく「創」った一方で、人間を神の「似せモノ」として「作」ったことになる。)

以上のように、「創る」とは「既存のものを、新しく組み合わせることによって、新しいものをつくる」ことであるが、これはつまり、これまでにあった、そして現在ある他の全てのものとは別の、異なったものをつくることである。従って、「創る」とはまた「似せモノではない、本物をつくる」ことでもある。では、ここで改めて次のように問い掛けてみる。

「はたして私たちはなにかを創り得るのだろうか。」

 

答えはもちろん、イエスである。というよりも、私はそれ以上のことが言える。すなわち、単に創り得るというだけではなく、私たちは現に創っているのだ。私たちは、日々の生活の中でいろいろなものをつくっている。お腹が空けば食事をつくり、学生は単位を取得する為にレポートを提出期限までにつくる。ある人は趣味で曲をつくり、公共の目的の為に橋や道路がつくられる。しかし、それら日々の生活の中でつくられているものは、すべてどれ一つとして他のものと同じものはない。今日のカレーは昨日のカレーとは違い、図書館で借りた本の内容をそのまま写しただけのレポートは、その本とはまったく別物であり、どこかで聞き覚えのあるメロディーの寄せ集めに過ぎない曲はそのメロディーの基になった曲とは異なり、橋や道路は、その目的こそ同じであれ(どんな目的かはともかく)、すべて新しいものである。昨日も今日も明日も、すべて同じことの繰り返しであるように思われる日々の生活において、私たちは常にこれまでのものとは少し、ほんの少しだけ異なったものをつくり出している。しかし、それはその差異が非常に小さく、その分創造性も少ない、というだけであって、そのようなものをつくる時、なにかを「作る」と称して言うのであり、決してまったく創造性に欠けているという訳ではない。そして、私たちがこれまでとはまったく違った何かを、そしてそれゆえに見る人、読む人、聞く人、味わう人を驚かせ感動させる何かをつくったその瞬間、私たちはそれを「創」ったのだ。