三田青磁−型作り、物作り

関西学院大学院文学研究科美学専攻博士課程2年 井谷善恵

三田青磁は「わが国で最も優れた青磁」と専門家からも絶賛されておりながら、昭和19年の火入れを最後に絶えてしまったやきものであり、三田市は現在市をあげてその調査に取り組んでいる。

私は三田青磁の魅力はその色の深さもさることながら、土型成型による多様性にあると考える。三田において、青磁が生まれ、型物製品を中心とした発達の経過をたどることにより、型を作る、物を作るという意味について考察したい。

三田焼とは三田市南東部に点在する七箇所の窯(志手原窯、志手原新窯、虫尾新田窯、三輪上野窯、天狗ヶ鼻窯、三輪明神窯、三輪神前窯)で焼かれた製品を総称している。

その始まりとして記録に残るものとしては、京都清水焼の陶工、真清水蔵六(18211877)の著書『蔵六漫筆古陶録』のなかの記述、「寛政年代攝津有馬郡志手原土焼始る、三輪方面に土焼物始まる」がある。最近になって代々志手原窯主であった小西家から見つかった初代小西金兵衛の位牌の没年月日が宝暦13年(17631010日となっているところから開窯は宝暦年間かそれより前という説も出てきている。

三田は古来やきものの盛んな土地であった。陶磁器の産地として不可欠の条件としては、陶土の有無に加え、豊かな水、燃料用薪、および登り窯を作る際の傾斜地に恵まれることなどが上げられるが、三田は武庫川の十分な水量、松茸の生産地として知られる赤松の群生、また立杭焼の陶土採掘地として良性の粘土に恵まれていた。

三田における最も古いやきものとしては、昭和535月から始まった青野ダム建設に伴う埋蔵文化調査により見つかった竪穴式住居跡から、遺物として須恵器がみつかっており、古墳時代末期にすでにある程度の人口があったことと、どこで焼かれたかは未だ特定できないものの大ガメや陶棺の出土からみて、発見された場所からそう遠くない場所で焼かれていたとおもわれる。古墳時代から奈良平安へと続き三田は土器生産が行われたと見られるが、いつのまにか土器は平安初頭の陶器の出現とともに姿を消す。

『倭名類聚抄』器皿瓦器の条には

瓦器一云陶器、陶訓須恵毛能

とあり、平安時代に須恵器は「陶器」という文字を用い、「須恵毛能」と呼んでいたが、『延喜式』主計上に陶器を朝貢すべき国として、摂津・和泉・美濃・播磨・備前・讃岐の六国が上げられている。摂津国三田も丹波国立杭も同じ土を用いて同じ稜線の傾斜で登り窯を作ったのであるから、丹波とともに三田は焼き物の産地であった。

三田市に末という地名が在り、いつごろからそう呼ばれたかは未調査であるが、須恵町(福岡)、須江(宮崎、和歌山)陶元(多治見)等の地名が全国で窯場に近いところにあり、三田市末も須恵または陶邑からなどの転用ではないかと私は考えていた。三田青磁研究のまさに第一人者である大熊隆治三田市青磁研究委員会委員長にお聞きしたところ、氏は三田市末在住であり、ご自身の調査によってもまさに末は須恵ないしは陶からの転化であるとのご意見を頂戴した。末は、はずれではなく陶町三田の中心であったかも知れぬ。

三田焼隆盛期としては、三輪明神窯で三田本町豪商神田惣兵衛(17621838)を窯元とし、内田忠兵衛(1753?−1813)を主工とした文化文政から天保が考えられる。

三田焼の特徴である型物は京焼の陶工欽古堂亀祐(17651873)によってもたらされた技術によるところが大きい。「欽古作之 文化三玄夏」(1806)などの土型が伝わっている。欽古堂亀祐は京の名工奥田頴川の弟子であり、頴川門下として他に青木木米(17681833)、仁阿弥道八(17831855)、永楽保全(17951854)などが知られている。亀祐は道八、木米とともに頴川門下の三羽ガラスといわれ、互いにその腕を競っていた。寛政12(1800)に神田惣兵衛は頴川のもとを訪れ、三田青磁焼成のため、しかるべき陶工を紹介してほしいと依頼したところ、選ばれたのが亀祐であった。一説によると木米の青磁焼成技術があまりにも「唐物写し」として名高く、木米の指導により三田青磁が唐物との区別がつかなくなることを憂えた頴川の判断によるともいわれる。そして翌寛政13年に今度は紀州藩から陶工派遣の依頼が頴川のもとに持ち込まれたときは木米が派遣されている。頴川にすれば木米の技量が三田青磁をつくりあげることで、木米の技術も固定化し、また技術力の増した三田青磁が中国産のものと紛れて流通した場合の責任を恐れたのかもしれぬ。当時粟田口で京の名工として名をはせていた頴川のもとにも三田青磁の評判は轟いていたにちがいない。

18世紀後半になると磁器は、肥前、瀬戸および京焼以外にも前出の福岡県須恵町や愛媛県砥部焼など各地で焼成されるようになり、庶民も食器として使用するようになった。しかしやはり肥前や瀬戸などの大量生産から生まれる販売力と技術力に勝てずに消えていった窯がたくさんある中で、三田がなぜ磁器の中で特に青磁を中心とし、その販路を広げていくことができたのだろうか。

大橋康二氏は「日本の青磁 三田の青磁」のなかでその理由について

  1. 江戸末期における中国明末磁器への復古ブーム、

(2)日本人の宋・元・明の中国青磁に対する美意識

を挙げられている。

日本人のに対する関心すなわち唐物数寄に関しては、吉田兼好が『徒然草』で「唐物は薬の他はなくとも事欠くまじ」といきすぎを批判しているほどであり、室町時代における足利将軍の唐物唐絵収集は東山御物として名高い。安土桃山時代になるとその傾向はやや衰え、利休が長次郎を指導して楽茶碗を焼かせるなど従来の唐物数寄からの脱却が図られる。

しかし、現在にいたっても国産のやきもので国宝と名の付くものは、志野茶碗「銘卯花墻」など5点であるのに比べ、海外産は9点、そのうち李朝の「銘喜左衛門」の井戸茶碗を除けば、あとはすべて南宋時代のものである。そして、茶道具としての天目茶碗5点を除けば、「青磁下蕪花生」、「青磁鳳凰耳花生 銘万声」、「飛青磁花生」と青磁が3点も含まれる。国宝がある意味で日本人の美意識を表すものとすれば、日本人の色に対する嗜好は青磁をもって最上といって差し支えないだろう。大橋氏のいっておられるように唐物そして色目としての青磁は日本人の憧れだったのである。

しかし、さしもの隆盛を誇った三田青磁も、明治7年、三輪明神窯が「三田陶器社」と生まれ変わり、内需とともに輸出拡大をねらい、また14年には田中利衛門が第2回内国勧業博覧会にて青磁で有功賞を受賞するなど名声に支えられての努力は見られるものの、その後衰退し、昭和8年明神窯閉窯、同19年志手原窯閉窯となった。一時は志手原窯主小西家16代当主百助氏によって大正8年に窯が再考されたとおもわれたが、昭和50年百助氏が86歳の生涯を閉じられたことにより三田焼の火は燃え尽きた。

しかし、閉窯後も「三田青磁」の名は地元で忘れられることなく、昭和39年に保存会が発足され、寄贈者が相次いだ。また昭和4748年の三輪明神窯跡で発掘調査が行われた際、青磁、白磁、染付けおよびそれらの陶片、素焼きの未製品、窯道具などとともに土型が多量に出土した。その土型の量は54cm/34cm/12cmのコンテナで約300箱に及んでいる。

また、平成6年志手原窯閉窯50年を経て、平成6年小西家での調査をおこなったところ、明治26年(1893)に建てられた離れの縁側床下からほとんど無傷の土型619(整理段階で同一と判明したものがあり、資料総数616)が見つかり、小西家の好意により三田市に寄付され、貴重な資料となっている。

このように型物中心の三田焼に大量の土型がでてきたことは、今後の三田のやきもの研究に飛躍的な成果が期待できるであろう。窯場の現地調査からもわかるように,日本全国焼成当時の状態を残しているものは少なく、三田もいったん調査がはじめられたものの中断して地形が変わってしまった箇所もある。そのような中で、当時のやきものがいかに作られたかという証拠ともいうべき土型大量発見は研究上第一級の資料といってよい。

さてここで土型についてすこし触れてみたい。

まず食器といえば現代でも洋食器と和食器共に皿は丸型が多い。その理由は扱う側からすると、持ちやすい、重ねやすい、収納しやすい、洗いやすい。料理を作る側からいえばどの方向からも盛り付けやすい。また誰にとっても比較的あきのこない形であるということがいえる。食器を製造する側からいえば作りやすいというのが一番の理由であろう。丸皿のばあいは、型を取って型に流し込むより、轆轤をまわして作るほうがはるかに簡単である。急須や茶器などの中空品のような場合は一重流し込み成型という製法が用いられるがこれに要する時間が現代でも約2時間、それに比べると丸い皿を作るのに轆轤をまわして1分もかからない。皿の価格は品質が同じであれば丸皿は角皿の二分の一。では何故三田青磁においては土型を用いた成型が多かったのだろう。

まずは三田焼が欽古堂亀祐の指導によるところが大きいのは先に述べたとおりである。 識字陶工が少なく、陶磁器に関する文献もかぎられる江戸時代において、亀祐は文政13年(1830)秋に『陶器指南』を著し、50項目におよぶ陶法とともに自分の生い立ちも述べている。自序冒頭に「予幼きより陶器を製する事を好みにし」とある。明和2年(1765)、京都伏見の土器や伏見人形を作る陶家に生まれ、子供のころから土ひねりが好きで天賦の才能を発揮したらしい。亀祐の指導を受けた三田青磁が型物を中心に発展していったのは当然といえる。

さてそれでは土型を用いた成型の利点とは何であろうか。それは轆轤で作り出せない複雑な形のものを、いったんその型をつくってしまえば同じ物を数多く生産でき、それを使用してのさまざまな応用も可能だということである。皿や鉢、置物など同一企画のものを量産することが可能となり、型の組み合わせや装飾方法によって仕上げが異なったものを作り出すことができる。

また、土型をつかったやきものを成型するためには、大別して3つの土型を作る必要があり、機能により成型用型である内型(雄型、凸型)、外型(雌型、凹型)、それらを製作する原型(元型)に分けられる。この三種の土型が出土していることで限られた数の製品や陶片では不可能であったさまざまな研究が可能となる。三田市では毎年、少しずつテーマを変えてさまざまな三田焼の展示をおこなっているが、2001年度は「三田焼にみられる器のきょうだい」と題して、同型からつくられた「きょうだい」がいかに変化に富んでいるかを紹介している。それを見ると同じ親から生まれた子供達の多様性に驚くばかりである。この2001年の三田市立図書館での展示では、同型土型を利用して青磁と染付をつくるなど当時の陶工の工夫を目にすることもできた。

関西学院大学にとって重要な部分を占めつつあるこの地において、人々はなんとすばらしい色と型を作っていたことだろうか。広辞苑は「型にはめる」を、「決まった枠にはめて個性や独創性をなくす」こととしている。しかし型にはめられてからのすばらしい応用を三田青磁は教えてくれる。

兵庫県には三田青磁の他、丹波立杭焼をはじめとして、純白の磁器として名高い「出石焼」、三田同様亀祐が指導したとされる篠山藩の藩窯「王地山焼」、姫路藩の藩窯である「東山焼」、賀集a平の陶業に代表される「淡路焼」、「明石焼」、「朝霧焼」、「舞子焼」「大久保焼」など日常雑器をやいたものから仁清写しまでさまざまな窯があった。また明治9年設立の出石の「盈進社」、同年姫路の「永世社」をはじめ、私にとってこれから調査をはじめたい事柄もたくさんある。物作りをまなぶことは先人たちの努力を辿ることでもある。

国を問わず先人たちのすばらしい作品を見、そして自分で作ってみる。もちろん、有名無名の天才たちの仕事にははるか及びもつかない。しかし、自分で作ることで先人たちの偉大さを下手なりに身をもって体感し、また、先人たちの作品を直接見ることで自分の感性が、わずかずつではあるが豊かになる。ものづくりを知るよろこびである。

欽古堂亀祐の戒名は「亀祐居士」であり、その墓碑は三彩陶墓で連弁から上がすべて焼き物という凝ったものである。「名は世に光る」とは墓碑同様なんと晴れがましい名であろうか。私が後何年生きたとしても世に光るものを作りうることはまずありえない。それならせめて先人たちの作ったものを研究し、後世に伝えることで、ほんのわずかでも世の光となることがかなうならばというのが私のささやかな望みである。

引用文献

金田真一『欽古堂亀祐著 陶器指南解説』1984年、東京:里文出版 

三田市教育委員会『三田焼の研究−三田市志手原小西家寄贈土型資料調査報告書−』1996年、三田市

三田市教育委員会『「日本の青磁 三田の青磁」企画展図録』1999年、三田市

三田市教育委員会『三田焼の研究−三輪明神窯跡出土土型@−』1999年、三田市

杉田博明『京焼の名工・青木木米の生涯』2001年、東京:新潮社(新潮選書)

楢崎彰一、『三彩 緑釉 灰釉』(日本陶磁大系第5巻)1990年、東京:平凡社

ノリタケ食文化研究会『器物語』2000年、名古屋:中日新聞社