跳 躍

関西学院大学文学部3年 天野真将

 

 

エム君 失礼します。

 

エス先生 どうぞ。エム君、また質問かね。

 

エム君 ええ。今、お時間の方はよろしいですか。

 

エス先生 大丈夫だよ。せっかく君の「突飛」な話を聞けるのだから、ちょっとした用事ぐらい、後回しにしても何でもないからね。

 

エム君 では。……先生はよく授業などで、いろいろな本を読むよう勧められますね。

 

エス先生 ああ、そうだね。

 

エム君 そこで質問なのですが、本を読むのは、何の為なんでしょうか。

 

エス先生 それは、どういうことかね。

 

エム君 つまり、本を読む意義とは、どういったものなんでしょうか。先生が本を読むように勧められるのは、本を読むことに何か意義があるとお考えになるからですよね。

 

エス先生 もちろんだとも。……しかし、逆に聞くが、そういう質問をしてくるところからすると、君は本を読むことに意義がないと考えているようだね。

 

エム君 その通りです。というのは……本を読むと、何か知識を得ることができる、と普通は考えます。

 

エス先生 そうだね。

 

エム君 でも、その知識とは、どのようなものなのでしょうか。本に書いてある文字は、いわばインクの染みに過ぎない、本を読んで何かを学んだと言う人は、その染みの形を頭に記憶しただけなのに知識が増えたと思い込んでいるような気がするんです。まるで、世界地図を見ただけで、世界中を旅行した気分になっているように。

 

エス先生 しかし、文字が単なるインクの染みだとしても、そこから何も学べないということではないだろう。その本を読んだ人は、その本で語られていることについて、何らかの説明ができるようになっているはずだ。とするなら、この人は、何か新しい知識を、読書から得たのではないかね。

エム君 確かに、その一文字一文字の発音の仕方を知ってさえいれば、その本を暗記することによって、人前で暗唱してみせることもできるでしょう。しかし、何かについて言葉を連ねることができるということと、その何かについて実際に知っているということは、別じゃないですか。例えば、自転車や、そのパーツすら一度も見たことが無い人でも、自転車についてのあらゆる事、例えばパーツの名前や乗り方などが書かれた本を丸暗記すれば、この人は自転車についてのあらゆる質問に、言葉で答えることができるでしょう。しかし、この人はおそらく実際に自転車には乗れないどころか、自転車を見せられてもそれが自転車だということにすら気づかないはずです。

 

エス先生 だが、もし一度でも自転車、或いは自転車のパーツを見たことがある人なら……

 

エム君 ……その人は本の内容を本当の意味で理解し、その理解を基に実際に自転車に乗れるかもしれません。そしてまさに、この点こそ当に僕の言いたいことなんです。つまり、本の内容を理解する為には、予めそこに書かれてある内容を実際に何らかの形で体験していなければならない。そうでないと、読書の結果得られるのは、単なる字面だけの理解でしかない。実体験が先行してこそ、その人の語ることが内容の伴った説得力のある、生きたものになるのであって、体験して無いことについて書かれた本を読んで新たにできるようになることといえば、その本に書いてある字句をオウムのように繰り返すことだけ。そこで語られている言葉は、何と言うか、地に足のつかない、内容を欠いたものであるような気がするんです。

 

エス先生 しかし、体験したことが無い出来事を疑似体験できる、これこそ本を読む意義なのではないかね。我々が今持っている経験、さらには一生の中にできる経験は限られている。その限られた経験を、読書によってより豊かにすることができる。君が言うように、自分が一生の内に体験した事だけが内容のある経験だとするなら、我々は非常に狭いものの見方しかできないだろう。

 

エム君 ……。

 

エス先生 更に本は、単に今までに体験したことが無いというだけではなく、これからも体験し得ないような出来事についての経験も与えてくれる。小説に描かれる世界が、まさにそれだ。読書は、我々が持つ経験を拡張するだけでなく、想像力を掻き立てることによって、我々の視野を広げてくれる……

 

エム君 ……小説が想像力を掻き立てる、その点は認めますが、しかし言葉が現実と虚構を等しく語り得るということは、逆に言えば言葉によって描写された現実と虚構は、その言葉を読んだだけでは区別できない、ということになります。虚構をあたかも現実であるかのように語っている本をその表面だけとらえて読めば、誤った知識を得てしまうことになります。そして、その本が現実なのか虚構なのかを判断する為には、やはり予め現実の世界がどのようなものなのかを知っていなければならない。もし、そのことを知らないで本を読むのであれば、その本に書かれてあることが現実なのか虚構なのかの判断を保留したまま読まなければなりません。ですが、そのような事が、果たしてできるでしょうか。

 

エス先生 ……。

 

エム君 違いますか。

 

エス先生 君は、小説、つまり明らかに「虚構」について語っている本を読むことは、問題ではないと考えているんだね。

 

エム君 はい。虚構については、そもそも正しいとか誤っているとかは言えませんし、もしある本がフィクションの振りをしたノンフィクションであったとしても、その本で得た知識は誤っているとまでは言えないでしょう。虚構を現実であると思い込むことよりも、現実を虚構として捉えることの方が、読者に与える害悪は遥かに少ないでしょうから。我々は、一度何かを現実だと思い込めば、それを簡単には訂正できないですからね。

 

エス先生 では、まず「虚構」を現実であるかのように語っている本についてだが、このような本は、不確かな知識を与える点が問題だということだね。

 

エム君 語られていることが正しいか、誤っているかが不明であるという意味では、不確かだと言えます。

 

エス先生 しかし、たとえ不確かな知識であったとしても、知識が全く無いよりはいいのではないかね。先ほど君は地図の話をしていたが、地図を例にとって見よう。地図を持たない人は、初めて訪れる場所では迷い、自分で地図を描きながら歩かなければならない。その作業は、極めて多くの注意力を必要とするだろうね。

 

エム君 そうでしょうね。

 

エス先生 では、その場所についての地図を持っている人はどうだろうか。その地図にはどこか誤っているところがあるかもしれない。しかし、そんな地図でも、その人が未知の土地を歩く手助けにはなるだろう。誤っているところがあれば、その都度自分で直せばいい。自分の足で恐る恐る歩きながら、白紙から地図を作るよりも、ずっと楽だろう。

 

エム君 しかし、その地図が全くでたらめだったとしたら、かえってその人を戸惑わせるのではないですか。

 

エス先生 君は、全くでたらめの地図を見たことがあるかね。

 

エム君 いえ。

 

エス先生 そうだろう。地図が全くでたらめな可能性は常にある。しかし、それは稀なんだよ。その非常に少ない可能性ゆえに、むざむざその地図を捨て去ってしまうなんて、もったいないだろう。同様に、本はまったく誤っていることもあり得るが、だからと言ってその本を読むべきではないということにはならない。……先ほど君は、書いてあることについて正誤の判断を保留したまま本を読むことはできない、そう言ったね。

 

エム君 はい。

 

エス先生 何か新しい知識を得た時、我々はそれが等しく真偽どちらでもあり得るとは考えない。まず、正しいと考え、誤りが確認されれば、修正する。これは、本についても同じだ。まず本の内容が正しいとした上で、君が言うところの「現実」を見、そして食い違いがあるなら自分でそこに修正を加える。私たちは、実際そうしているのではないだろうか。

 

エム君 しかし……

 

エス先生 ……もし、君が「明日は50%の確率で雨が降る」と言われれば、どうする。

 

エム君 一応、傘を持っていきます。

 

エス先生 そうだろう。たとえ確率が半々だとしても、我々はそのどちらかに賭けて、何かをしたりしなかったりする。ましてや本が正しいことを語っている確率は半分より大きいだろう。とすれば、とりあえずはその内容が正しいものとして読み、それを信じてもそれほど「害悪」は無いのではないかね。

 

エム君 ええ……。

 

エス先生 次に、君は「正しい」と「誤っている」の区別を、「現実」と「虚構」の区別と同一視しているようだが、この二つの区別は別の物だ。

 

エム君 と言うと。

 

エス先生 「正しい」と「間違っている」は、一つの世界についての記述に関して言われるものだね。

 

エム君 はい、そうです。

 

エス先生 それに対し、君の言う「現実」と「虚構」はそれぞれ、それ自体が一つの世界であり、いわばこれらは二つの異なる世界だ。前者は、それを体験することによって確実な「正しい」知識を我々に与えてくれる世界、後者は、体感することができず、したがって「正しい」とも「誤っている」とも言えない怪しげな知識しか与えない世界だ。そしてこの二つの世界の区別こそ、「読書には意義が無い」とする君の主張の核を成している部分のようだ。

 

エム君 それはどういう事でしょう。

 

エス先生 君は、本が描く世界は全て「虚構」だと思っているのではないかね。

 

エム君 実は、そう思っています。

 

エス先生 文字は、単なるインクの染みに過ぎない。そして本を読んで得られるのは、そのインクの染みが我々の心の中に呼び起こしたイメージ、「虚構」の世界についてのあやふやな知識でしかない。そういう事だね。

 

エム君 そういう事です。

 

エス先生 君によると、我々が知りたいのは、「現実」の世界についてであって、「虚構」の世界について知ることに意義はない、それどころか、害悪をもたらす。唯一許されるのは、明らかに「虚構」と分かった上で小説を読む時の、罪の無い慰めとしての読書だけだ、ということになる。

 

エム君 まったくその通りです。我々が生きているのは、虚構の世界などではなく、現実世界ですから……

 

エス先生 ……その通り、そして、その「虚構」の物語を読んで心を揺さ振られる私は、私の喜びや悲しみは、涙は、現実のものだ。我々に与えられているのはただ一つ、我々がそこで生き感情を揺れ動かす現実世界だけであり、君の言う本の中の「虚構」の世界は、このただ一つの現実世界の一部として、現実に生きている我々を突き動かしながら、常に我々と共に在る。「虚構」も現実なのだよ。単なる出来の悪い、現実の模造などではなく。我々が本を読んで実際に何かを考えたり感じたりすることができる、これがまさにその証だ。

 

エム君 ……。

 

エス先生 本に書いてある文字は、いわばインクの染みに過ぎない、君はそう言ったが、インクの染みに過ぎないものを、どうして君は文字だと判別できたのだろう。それは、そのインクの染みが、インクの黒と背景の白とのコントラスト以上の何かを君に伝えたからだ。自転車についての本を読んだだけの人は、自転車には乗れないかもしれない。しかしこの人は、自転車について全く知らない人よりも速く自転車に乗れるようになるだろう。それは、この本がその人に何らかの知識を与えていたからだ。

 

エム君 確かにそうかもしれませんが……。

 

エス先生 虚実二世界の区別ができないなら、一方が不確かで、他方が確かな知識を与えるという言い方もできなくなる。我々が持つ現実世界についての知識が誤っていて、それを本を読むことで修正するのは実際よくあることだ。君の考える二世界の区別では、この事が説明できないだろう。

 

エム君 しかし先生、本を読んで得た知識を得意げに披露する人が、いざ何かをやる段になると何もできない、これも実際によくある話ですよね。先生なら、これをどう説明されるんです。本を読んだだけの人も、確かに何かを学んでいる。いいですよ、それでも。しかし同時にこの人は、そこに書かれた内容を本当に理解している人が知る何かを、未だ知らずにいる。そしてこの何かこそが、物事を真に把握する為に不可欠なもののはずです。この真の把握が無い人は、口先だけのオウムとまるで同じじゃないですか!

 

エス先生 ……君が先程使った、「地に足のつかない」という言葉に掛けて言うと、この口先だけの人はまさに空中をさまよっている感じが確かにするね。

 

エム君 そうでしょう、この人は地に足をつけなければならない。実体験を欠いているんです。

 

エス先生 違う。本が現実の一部である以上、読書もまた一種の実体験なのだから。読書ばかりしている人は、実体験を欠いているからではなく、世界をある限られた視点からしか見ようとしないから、「地に足のつかない」感じを与えるんだよ。

 

エム君 なんですか、その「ある限られた視点」とは。

 

エス先生 君は言ったね、本を読んだだけで何か知識を得たと思うのは、世界地図を見ただけで世界中を旅行した気分になっているのと変わらない、と。しかし、地図無しでは、自分が世界のどこに居るのかが分からなくなり、世界を旅行しているという「気分」すら味わえないだろう。それはただ、自分の視界に写る風景の中を、うろうろしているだけだ。同じように、本を読まないと、自分の周りの世界を、ただ呆然と眺めていることしかできない。

 

エム君 ……。

 

エス先生 世界の全てを知る為には、実際に旅することも必要で、地図を眺めているだけでは駄目だ。しかしまた、地図を見ることによって、自分がどこに居るのかが分かる。同じように、本を読みそこから知識を得ることによって、自分の目に入る光、耳で捉えた音が、何であるのかを自覚することができる。読書とは、自分が立つ安定した地を蹴って、高みから自分がもと居た場所を取り巻いている世界を眺める為の跳躍だ。自分の見たもの聞いたもの触れたものが一体何であるのか、そして自分自身が何者であるのか、これらをを知る為に、読書は必要なんだ。本を読んでばかりいる人は、この「上からの視点」にいつまでも浮いていられると錯覚している、中空を漂うオウムだ。跳躍が必ず着地で終わるように、本を読み終えた者は本を閉じなければならない。いつまでも本という狭い世界に浸っている訳にはいかない。しかし、いつか着地しなければならないからといって、跳躍してはいけないということにはならない。それと同じで、読書もまた禁じられることはない。本を読まないでもいいと言うことは、自分が何を感じているのかも知らないまま、ただ自分の周りに五感を張り巡らせて呆然としていればいいと言うのと同じことになる。君は、そんな「地を這う」ような生き方を望むかね。というより、君は実際そんな風に生きているかね。君の話を聞いている限り、私にはどうしてもそのようには思えないのだけれどね、エム君!