「力」の関学 ~校歌を読み解く~

関西学院大学法学部年 畑中頼親

 

.はじめに

 現在、幾多ある関西学院の“College Song”の中でも、校歌として一般に知られているものは次の4つである。

Old Kwansei」(原詞:Herlran Page Peck 作曲:Karl A.Langlots 修正者未詳)、「空の翼」(作詞:北原白秋 作曲:山田耕筰)、「緑濃き甲山」(作詞:柚木康 作曲:山田耕筰)、「A Song for Kwansei」(作詞:Edmund Blunden 作曲:山田耕筰)である。

 この中で最もよく歌われているのは「空の翼」であろうが、各々口にしている歌詞を“歌詩”として読み込まれた学生同窓は果たしてどれ程おられるだろうか。

 歌というものは往々にしてその歌詞の内容を意識することなく口にしてしまうものである。特に、口にする機会の絶えることのない校歌であれば、それも止むを得ないものと言える。

しかし、北原白秋作の歌詞が読むに耐えないなどということはあるはずがない。いや、むしろ校歌の歌詞にこそ学院の精神の真髄が凝縮されているのではないか。私はそう考え、校歌の歌詞を読み解くことによって、今までとは違った角度から関西学院の精神についての考察に挑んでみたい。

 

.“力のフレーズ”

 現在、関西学院の校風と言われているものは何であるか。

 一般的には、「良家の子女が通う、スマートで自由な気風」がそれであろう。どちらかと言えば線の細い学生のイメージである。

しかし、校歌を丹念に読んでいくと、一つの意外な発見に出くわす。

 それは、米国プリンストン大学の校歌「Old Nassau」の言わば“替え歌”であり、他の校歌とは趣を異にする「Old Kwansei」を除いた他の3つの校歌には、いずれも「力」という語句、もしくはそれに類する言葉が含まれているということである。

 「空の翼」のいわゆるサビにあたる「風 光 力 若きは力ぞ」という一節は言わずもがな、「緑濃き甲山」第2番には「もり上る生命雄々しく鍛え 信、知識、力共にぞきづく」という歌詞が存する。さらに、「A Song for Kwansei」には「Still true and strong」というフレーズが第1番、「Still strong and true」というフレーズが第3番にサビの一部として登場する。(文末リンク先参照)

 校歌というものは当該大学ないし学校の校風、沿革、伝統などを考慮して、その学校に最も相応しい歌詞が作り出されるものである。ということは、一見現在の関西学院の校風に相容れない、これら「力」を想起させる語句が校歌に含まれているのは、偶然ではなくやはり相応の理由が存在すると考えるのが自然であろう。

 

.他大学校歌との比較(他ミッション系私立大学)

 しかし、これら“力のフレーズ”が、大学の校歌には一般的に含まれるものである可能性も否定できない。

 ゆえに、ここで他大学の校歌の歌詞について検討してみたい。

 まず、関西学院と比較的類似した文化、伝統を持っているとされる、キリスト教主義を標榜する私立大学についてである。

 ここでは、その代表的存在である、青山学院大学、上智大学、立教大学、同志社大学の校歌を採り上げたい。(文末リンク先参照)

これらの校歌には、キリスト教という同じバックボーンを持つ関西学院の校歌と相通ずるものをいくつか見出すことができる。特に漂う雰囲気にはやはり関西学院校歌と同様のものも少なくない。

 しかし、具体的な歌詞の内容については、先に述べた“力のフレーズ”を見付け出すことはできない。もっとも、同志社大学学歌第2番に「活かせよ力に」というフレーズが存在するが、ここでいう「力」とは、“力のフレーズ”が意味する“Power”ではなく“Skill”の意味合いであると考えられる。

 つまり、この結果から、関西学院の校歌に共通して見られる“力のフレーズ”は、キリスト教主義を標榜する大学特有のものではないと言うことができるであろう。

 

.他大学校歌との比較(関関同立)

次に、地域的な特殊性も考えられるため、関西圏における関西学院と同程度の規模、歴史を持つ私立大学、つまり関西大学、立命館大学の校歌についても検討してみたい。(文末リンク先参照)

 いずれも堂々たる歌詞であり、全体として力強い印象を受けはするものの、その中に具体的な“力のフレーズ”を見出すことはできない。

 よって、“力のフレーズ”は地域的な特殊性ゆえのものであるとは考えられない。

 

.他大学校歌との比較(白秋作他大学校歌)

 ここで、このような考えをすることもできる。

 “力のフレーズ”は作詞者、つまり北原白秋、柚木康、Edmud Blundenの作詞に独特のものではないか、と。

 ただ、作詞者のうち、柚木康、Edmud Blundenについては、他大学の校歌についてはほとんど手がけていないので(Edmud Blundenについては、広義の“College Song”については他大学のものも手がけたと言われているが、大学の象徴たる“校歌”を手がけたことはないと思われる)、残る白秋について、氏が手がけた他大学の校歌についての検討も行ってみたい。

 白秋はその生涯において膨大な数の校歌の作詞を手がけたが、大学の校歌についてはその数は比較的少なく、一般的に知られているのは「空の翼」の他に、前述同志社大学、駒澤大学、東洋英和女学院大学の校歌である。

 駒澤大学は仏教(曹洞宗)系の大学であり、東洋英和女学院大学はキリスト教主義の大学である。(文末リンク先参照)

これらの校歌、駒澤大学においては「竹」、東洋英和女学院大学においては「楓・椎・樫」という植物を媒介にして大学を表現している点において、「ポプラ」を媒介に学院を描いた「空の翼」と同様の構成を持つ。同じく白秋作詞の同志社大学の校歌にも「三つ葉のクローバー」が登場することを踏まえると、植物を大学の象徴として描くことは白秋作の大学校歌の特徴とでも言えようか。

 ただ、やはりこれらの歌詞にも“力のフレーズ”を見ることはできない。

 つまり、“力のフレーズ”は白秋の作る歌詞に独特のものではないということである。

 

.小括

 以上より、関西学院の校歌における“力のフレーズ”は学院特有のものであることは明らかである。

 では、それぞれに“力のフレーズ”が込められた理由は何であったのか。

 以下では「空の翼」「緑濃き甲山」「A Song for Kwansei」が作成された背景と“力のフレーズ”との関係を検討してみたい。

 

.「空の翼」と“力のフレーズ”

「空の翼」は、1933年、関西学院出身の山田耕筰作曲、その親友北原白秋の作詞によって作成されたのは広く知られているところである。

1933年7月中旬、校歌作成のため山田耕筰と共に学院を訪れた白秋は、校歌の作成について尋ねた関西学院新聞の記者に対して「引き受けました。全力をつくしてうんと學院の

特色を盛つて明るい校歌を作りませう。幸ひ山田さんとも氣分がぴつたり合つて居るし、學院の明朗さも十分キャッチしたし、此上は書く努力だけです」(1933年8月20日付関西学院新聞)と語っている。

いつだったか定かではないが、「空の翼」の「風 光 力」というフレーズが“関学三原色”と言い表されていたのを聞いたことがある。絶妙の表現だと関心したものだが、ただ、「力」を三原色の一つに挙げるのにはどこかしら腑に落ちないところが私の中にはあった。

ところが、白秋は「うんと学院の特色を盛つて」である。しかも、“関学三原色”の中でもさらに「若きは力ぞ」と「力」をその核と位置づけているのであるから、当時の関西学院の気風はやはり「力」を中軸にした躍々たるものであったと考えて間違いない。

では、なぜ当時はそのような気風であったのであろうか。

その答えは当時の学院の置かれた環境の激変にあると考える。

すなわち、「空の翼」制定の前年に成された大学令による関西学院大学の設立認可、つまり“大学昇格”である。

大学昇格問題の詳細についてはここでは論及しないが、当時、大学昇格は私立“専門学校”(「専門学校令」による)にとっては、死活問題であった。設立認可が下りないと永遠に“専門学校”のままであり、既に正式な“大学”であった帝国大学と伍していく機会を失ってしまうからである。

そして、関西学院は他大学に比べ大学昇格に対して多大な苦労を強いられたと言える。

 関西学院の大学昇格運動が表面化したのは1919年の臨時学生会総会における大学昇格促進の決議からであるが、実際に設立が認可されたのは1932年である。つまり、大学昇格については実に13年もの月日を要したのである。1)「大学令」による大学昇格の最後発であった。

 これとは対照的に、関西学院と同年の1919年に「大学令調査委員」の選定によって大学昇格運動を始めた同志社大学は翌年の1920年に設立が認可されている。2)

 法政大学、明治大学、中央大学、日本大学など、他の主だった私立大学も同志社大学と同年に大学昇格を果たしている3)ことに鑑みると、関西学院の大学昇格に際しての苦労は並大抵のものではなかったことが推知される。

 その結果漸く果たした大学昇格である。大変な苦労の分、学内が正に活気、熱気に満ち満ちていたことは想像に難くない。

また、「空の翼」制定の4年前、1929年には、大学昇格の基盤を整えるためキャンパスを原田の森から上ヶ原へ移転しており、制定時においても、その新鮮な活力の余韻がまだ十分に残っていたはずである。

大学昇格に際しての学生の動きも見逃せない。大学昇格運動のそもそもの始まりが学生会総会における決議だったのであるが、その後も1929年5月の学生会総会、1930年12月の臨時学生会総会等において、度々大学昇格運動の促進が決議されている。4)この学生の自主性、積極性も他に比せば稀有のことであり、当時の学院の気風を語るには外せない要素である(尚、「空の翼」の作成それ自体が、学院当局の発案、主導であったわけでなく、昭和8年の学生会事業として学生自身の手によって企画され、果たされものである。他に類を見ないこの作成経緯も当時の学院・学生の気風を象徴していると言えよう5)。

 そして、大学昇格に纏わるこれらの要因が相まって、白秋に「風 光 力 若きは力ぞ」という一節を想起させたのであろう。

 立地、規模、歴史、教育理念など関西学院と同様のバックボーンを持ち、また、同じ白秋、山田耕筰の手による同志社大学学歌に“力のフレーズ”が見られないこともこれを裏付けていると言っても過言ではないはずである。

 

.「緑濃き甲山」と“力のフレーズ”

「緑濃き甲山」は戦中の1939年に作成された。

この校歌に含まれる「もり上る生命雄々しく鍛え 信、知識、力共にぞきづく」という一節についても、やはり歴史的背景から説明が可能である。

当時の学院を取り巻く状況としては、「緑濃き甲山」作成の前年である1938年、日中戦争下の戦局に鑑みて今の大学祭「新月祭」にあたる「記念祭」開催が自粛され、また、翌年の1939年には学生が治安維持法違反で検挙されている。6)軍靴の音が上ヶ原にも忍び寄ってきたのである。

敵国の宗教であるキリスト教を教育理念の根本に据える関西学院に、他大学よりも遥かに激しい逆風が吹きつけたことは容易に想像できる。

また、この校歌自体も、当時学院には「Mastery for Service」という“敵性語”を含む「空の翼」を歌うことを憚る風潮があったため、その代わりとして作成されたと言われている。

ゆえに、「もり上る生命雄々しく鍛え 信、知識、力共にぞきづく」という一節には、暗澹たる戦時下においてこそ関西学院の学徒は心身共に力強くあれ、という、作詞者である同窓柚木康の願いが込められており、かつ、この一節は第3番の

「虧くるをば知らぬ 三日月のごと

暗き世に絶えず 光をおくる

自治、奉仕、親和 等しく励む」

という歌詞と相まって、口ずさむことが叶わない“Mastery for Service”の理念を散文詩の形で表していたのではないかと考える。

 

.「A Song for Kwansei」と“力のフレーズ”

A Song for Kwansei」が作成されたのは1949年である。

 終戦を迎えて多くの学徒が復員し、上ヶ原には活気の渦が巻いていたであろうことは想像に難くない。また、関西学院は1948年に学制改革に伴い新制大学として認可され、新たなスタート切っている。

 今田寛前学長は「1998年度関西学院大学案内・教育研究編」(関西学院大学・1998年)に寄せた「A SONG FOR KWANSEI」と題した文においてこう語っている。

「当時私は本学の中学部3年生でした。まだ、修学旅行にはお米を持参しなければならない物のない貧しい時代でありましたが、創立60周年を迎えたキャンパスは喜びに満ちておりました。そのような中で紹介された英詩のこの校歌は、まことに新鮮で、これまで戦争のために閉ざされていた門戸が世界に向かって開かれたような感じがいたしました」7)

 おそらくBlundenは、戦渦から立ち直ろうとすべく歩みを始めた関西学院にキリスト者としての力強さを感じ、また更に強くあらんことを祈って「Still true and strong」「Still strong and true」というフレーズを盛り込んだのであろう。

 

10.“力の関学”

 以上のように3つの校歌は各々特殊な時代背景を持つものの、それぞれが結び付き合い、全体として関西学院校歌の“力の系譜”を築き上げている。

校歌は当該大学の精神の真髄を凝縮されたものであることを前提にすると、関西学院は、現在の“スマートな”校風とは裏腹に、実は、他に類を見ない力強さを核とする精神を築き上げて来ていたものと言えるであろう。

 何といっても、多大なる苦難の末大学昇格を果たし、私立、しかもキリスト教系ということで格段に激しかったであろう戦渦を耐え抜き、戦後の焼け野原の中から力強く復興を果たしてきた学院である。弱かろうはずがない。これら試練の中で消えていったキリスト教系の私塾は数知れないのである。

そして、これこそ、関西学院の精神の隠れたる一側面、“力の関学”であると言えよう。

また、この“力の関学”の精神によって、スクールモットー“Mastery for Service”の真意にも迫ることができると考える。

一般に「奉仕のための練達」と邦訳される“Mastery for Service”であるが、この“Mastery”には「練達」という語には詰め込みきれない程の厳しく激しく骨太な意味合いが込められているのではないか。

このスクールモットーを定めたとされるC.J.L.Bates4代院長は1959年付の神戸新聞紙上でこう語っている。「『マスタリー・フォア・サービス』は、このカレッジができてから、また大学ができてからできました。それはどういう意味であるかというと私どもは人として、いつも弱いものであってはいけません。できるだけマスターになりたいと思うのです。どういうマスターであるかというと、ただ他の人、他のものを治めるという意味ではなくて、深く考えてセルフマスターの意味であります。(中略)私どもは他のもの、他の人、他の悪い習慣の奴隷でなくて、セルフマスターにならなければならないと思います」

つまり、“Mastery”には、「練達」(「熟練してじょうずなこと」8))には留まらない、「克己」(「自分に打ち勝つこと」9))のニュアンスが込められていると解すべきではないか。

また、小宮孝第9代院長も、1967年発行の「関西学院学報」に寄せた「初めに建学精神あり」と題した文にこう記している。

Mastery for Service(中略)によって表現されている学院の建学の精神は、まず何より勉学に励み、心身を鍛錬し、知識・技能・徳性を高めるために絶え間ない努力とはげしい練磨をなすべきことを要求しているのである」10)

 翻って、現在の学院はどうか。

 私は、今以って一部においては“力の関学”の伝統は脈々と受け継がれていると考える。アメリカンフットボール部に代表される体育会の活躍を始め、関西学院には学生が自らの手で主体的に物事を成していこうという力の気風がまだ存している。

 ただ、全体で見ると、キャンパスには「空の翼」制定当時の闊達とした雰囲気は望むべくもない。時代の変化と言ってしまえばそれまでだが、その原因の一つには、学院が、学生が“力の関学”の精神を忘れてしまったことがあるのではないか。オシャレで、スマートで、就職がいい、学院のキャッチコピーとして語られるこれらの言葉を、いつの間にか学院も学生も鵜呑みにしてしまってはいまいか。本来の学院の精神はもっと厳しく、激しく、そして力強かったはずである。

学生同窓諸兄が今一度校歌の歌詞を読み込み、制定当時に思いを馳せ、そして学院の精神についての意識を新たにすることは、学院学生同窓の発展にとって決して無駄にはならないであろう。

 

 

 

【注】

1)  関西学院大学『1998年度関西学院大学案内 教育・研究編』(関西学院大学・1998年) p279~280.

2)  上野直蔵『同志社百年史 通史編一』(学校法人同志社・1979年) p827.

3)  上野直蔵、同上書 p835.

4)  関西学院大学、前掲書 p279280.

5)  関西学院広報委員会『関西学院通信 クレセント 第三巻第二号』(関西学院・1979年)  p84~85.

6)  関西学院百年史編纂事業委員会『関西学院百年史 通史編Ⅱ』(関西学院・1994年) p613.

7)  関西学院大学、前掲書 p3436.

8)  松村明(編)『大辞林 第二版』(三省堂・1999年)

9)  松村明(編)、同上書

10)関西学院キリスト教主義教育研究室『建学の精神考』(関西学院キリスト教主義研究室・1993年) p25~28.

 

【参考文献】

楠瀬敏彦『北原白秋と関西学院校歌「空の翼」』(平安書院・1992年)

関西学院百年史編纂事業委員会『関西学院百年史 通史編Ⅰ』(関西学院・1994年)

関西学院百年史編纂事業委員会『関西学院百年史 通史編Ⅱ』(関西学院・1994年)

関西学院キリスト教主義教育研究室『建学の精神考』(関西学院キリスト教主義研究室・1993年)

関西学院大学『1998年度関西学院大学案内 教育・研究編』(関西学院大学・1998年)

関西学院新聞タテの会(編)『関西学院新聞保存版 第1冊』(関西学院新聞タテの会創刊65周年事業委員会・1988年)

関西学院大学学生部『関西学院の歌(CD付属リーフレット)』(関西学院大学学生部・1997年)

上野直蔵『同志社百年史 通史編一』(学校法人同志社・1979年)

上野直蔵『同志社百年史 通史編二』(学校法人同志社・1979年)

東京女子大学五十年史編纂委員会『東京女子大學五十年史』(東京女子大学・1968年)

 

【ウェブサイト】

関西学院大学「校歌」(http://www.kwansei.ac.jp/top/song.html)

青山学院大学「校歌・カレッジソング」http://www.alumni-aogaku.or.jp/song/song.html

上智大学「上智大学校歌」http://www.sophia.ac.jp/J/first.nsf/Content/koka

立教大学「校歌・応援歌」http://www.rikkyo.ne.jp/~koho/univ_data/songs/

同志社大学「カレッジソング」(http://www.doshisha.ac.jp/daigaku/kokoro/c_song/cs_02.html

関西大学「学歌」http://www.kansai-u.ac.jp/Guide-j/sound/kasyu_picture/01gakuka.htm

立命館大学校友会「校歌」(http://www.ritsumei.ac.jp/kic/741/index-j.html)

駒澤大学「駒澤大学校歌」(http://www.komazawa-u.ac.jp/top/kousho/kouka.html)

東洋英和女学院「校歌」(http://www.toyoeiwa.ac.jp/gakuin/kouka.html)