黄金のエルサレム

神学部4年 宮本ゆき


 

黄金の糸

……黄金の糸のこの端を/ ただひたすらに巻きまろめて行けば/

エルサレムの聖域に立つ/ 天国の門へやがて君は至り着く

― W. ブレイク 「ヂエルーサレム 序詩」[i]

 

映画「シンドラーのリスト」はほぼ全編がモノクロームの映像だ。第二次世界大戦中のポーランドでナチスの迫害によって死と隣り合わせの日々を送っていたユダヤ人と、そのうちの1200人を救出したオスカー・シンドラーというドイツ人の物語である。実話にもとづくこの作品に、監督のスティーブン・スピルバーグは数箇所だけカラーを使っている。まず冒頭のタイトル。背景で、あるユダヤ人の家庭で安息日のためにキャンドルが灯され、タイトルが消えるとともにキャンドルの周辺から色が消え、モノクロームの映像が淡々と切りつめた語り口で物語を始める。次は、ゲットーが解体されることになり「無用」となったユダヤ人が虐殺されていくのを見つめる少女の赤い服。原作によるとゲニアという3歳の幼女で、ナチスの親衛隊に捕まり広場に集められていた人々の中から、赤という目立つ色をまとっているのに「まるで海千山千の相場師のような冷静さ」[ii]でゆっくりと誰にも気づかれずに抜け出すという離れ業もやってのける。極限の状況の只中におかれた生命、絶望しつつ生へ向かおうとする人間の意志、そんな「赤」と思えた。

そしてエピローグ、戦後のエルサレムが鮮やかなカラーで映し出される。旧市街を囲む城壁の南側、シオン門の近くにあるキリスト教徒墓地で、シンドラーに命を救われたユダヤ人たちが彼の墓前に小さな石を積み重ねていた。ユダヤ人にとって石は不変不滅の象徴で、石を積むという行為は、旧約聖書の中で信仰や希望と結びついて語られている。しかも、後から述べるように、エルサレムは石でできた都でもある。そしてこのシーンでは「黄金のエルサレム」という歌が流される。三拍子で軽快だが短調で、無伴奏の混声合唱によるメロディはどこかしらノスタルジックだ。

 

丘の空気はワインのように澄み、松の香りが夕べの鐘の音と共に漂ってくる。

木も石も深いまどろみの中で、孤独な町がたっている、その懐に壁を抱いて。

(リフレイン)

黄金のエルサレム、銅色と光の、

あなたの歌のひとつひとつにあわせて、私は竪琴になろう[iii]

 

リフレインの“イェルシャライム シェル ザハブ”(ヘブライ語で“黄金のエルサレム”)は、私自身のモノクロームのような思い出から聞こえてくる声と重なる。それは、高校時代、留学先のアメリカでユダヤ人の友人に誘われ、はじめてユダヤ教のシナゴーグ(会堂)に行ったときのことである。安息日、つまり金曜日の礼拝で、夕方のせいか馴染みのあったキリスト教の礼拝に比べると全体にひそやかな雰囲気があった。ほとんど英語だったが、何が祈られ、語られ、歌われたのか当時の私の英語力ではさっぱりだった。ただ、簡素な礼拝堂に何度も「エルサレムに帰ろう」、「シオン(エルサレム)を忘れまい」という詠唱が響いた。集っていた100人あまりの男女の大半はエルサレムに行ったことがないと後から知ったのだが、穏やかながら確信と決意がこもった和声には心を揺さぶられるインパクトがあった。これはどういう人々なのだろう、エルサレムとは何だろう、と怪訝さと一種の畏敬を覚えた私は、今からふり返るとそのとき黄金の糸の端を手にしていたのだ。

 

黄金のエルサレム 

あんなに近く、あんなに遠いエルサレム。それは生きており、もうじき近づくことができる。

        ― E. ヴィーゼル『エルサレムの乞食』[iv]

 

イスラエルの国民的作詞・作曲家、ナオミ・シェメルによる「黄金のエルサレム」がはじめて歌われたのは1967年5月15日、イスラエル独立記念日の祝典である。独立から19年、2度の中東戦争を経て、国家として本当に立ち行けるのかどうか、まだだれもが不安を抱えていた時代だった。しかも、エルサレムの核、すなわち城壁に囲まれた旧市街は当時ヨルダン領だったために、その中にあるユダヤ人の聖地である「嘆きの壁」、すなわち第二神殿の西の壁の遺構にユダヤ人は入れなかった。目の前にありながら近づくことのできないその壁への深い渇望と強い憧れを込めたこの歌を、祝典に集っていた市民は熱狂的なアンコールで迎え、その場で覚えたリフレインを大合唱した[v]

この翌日、エジプトはチラン海峡を封鎖し、臨戦体勢に入ったことを表明。近隣のアラブ諸国がエジプト支援にまわるなか、小さなイスラエルが壊滅させられるのは時間の問題だと見られた。しかし、6月5日に始まった戦闘でいち早く制空権を獲得したイスラエルは、東エルサレムはおろか、西岸、ガザ、そしてシナイ半島まで一挙に占領してしまった。ユダヤ人が“神の創造の6日間”になぞらえて“6日戦争”と呼ぶこの第三次中東戦争の3日目、22時間の戦闘のすえにイスラエル軍は旧市街に侵攻した。従軍主席ラビが片手に聖書の巻物、片手に角笛をもって「嘆きの壁」へとひた走った。壁の前で角笛が吹きならされると、自らを無神論者だと思っていた将校や兵士たちさえ「人間とは思えない異常な力」に全身を捉えられ、ある者は身動きできず、ある者は壁にすがりつき、互いに感涙にむせんだという[vi]。「黄金のエルサレム」は何度も繰り返して歌われ、エルサレムの運命を予告した歌としてやがてエルサレムの市歌となる。

とはいえ、それは高らかな戦勝の曲、勇ましい凱旋の歌ではない。歌詞のはじまりは紀元前6世紀にバビロンに滅ぼされ、住民が捕囚としてバビロンに連れ去られた後のエルサレムを「なにゆえ、独りで座っているのか、人に溢れていたこの都が」(哀歌1章1節)と悲しむ旧約聖書の詩に重ねてある。また、リフレインのむすび、「竪琴になろう」も、捕囚の地で“歌え”と言われたが歌えず、傍らの柳の木に竪琴をかけて嘆く詩(詩篇137)を思わせる。ほかにもイザヤ書や詩篇からとられたエルサレムのイメージや表象、ユダヤ人の離散、異郷での迫害が、争いに蹂躙されつづけたエルサレムへの思慕として全編に読み込まれている。そしてなによりも、この歌を歌うものも聞くものも、日夜の祈りでエルサレムを口にしながら散っていった幾多の生命を思わずにはいられない。フランクルが『夜と霧』で述べているように「すなわち最もよき人々は帰ってこなかった」のだ[vii]。だから「黄金のエルサレム」は現代のイスラエルの哀歌である。

 

黄金の石

色彩というものは、ほとんど音楽と同じくらいに私たちを高みへとひきあげてくれるものである。      ― E. マール 『ヨーロッパのキリスト教美術』[viii]

 

ところで、「黄金のエルサレム」は決して単なるレトリックではない。夜明け前、この町の東端にある「オリーブ山」に登ってみる。海抜800mの山頂の向こう側には、日中ならユダの荒れ野がうねり下り海抜マイナス400mの死海に至っているのが見える。まだ暗闇に沈んでいるその方角からバラ色の征矢が天空に走ったら、ふり返って街灯におぼろなエルサレム市に向き合う。モスクの尖塔やドームが、教会の鐘楼が、はじめは赤銅に、やがて金色にきらめき出す。きらめきは刻々と広がりつながり、旧市街を囲む城壁が黄金の冠さながらに輝く。集まってきた巡礼や観光客が言葉もなく魅了されている。彼ら相手のみやげ物売りや観光用のラクダを連れたベドウィンも、見慣れているであろうこの光景にじっと目を注いでいる。やがてエルサレム全体が巨大な黄金の鉢となって輝きわたると、ショーは始まったときと同じくらい唐突に終わる。

私たち日本人は朝日のつくりだす美しい景色の見られるところを大切にしてきた。「嵐のあとなど、日の出の時刻が近づいて澄んだ東空に漂う雲が次第に赤く染まってゆくとき、いかなる名画も足元に及ばぬほどの見事な色彩が展開されることがある。しかし太陽が頭を出すと急速にすべての色彩は消え、平凡な朝の風景が始まり、太陽はもう眩しすぎて直視はできなくなる」[ix]

夏の間、エルサレム上空に雲を認めることはめったにない。だから、ここでは朝の斜光が描き出す、いかなる名画にも優る色彩とは雲ではなく石がキャンバスだ。そもそもエルサレムは石灰岩からなるユダ丘陵に位置している。その上、建造物は全て外壁にこの「エルサレム石」を使うことが英国統治時代に決められて以来、今でも市の条例となっている[x](いうまでもなく、有名な金のドームをはじめ金や銅で葺いた屋根を持つ建築はそれ以前のものである)。この石は、切り出したときは柔らかく細工しやすいが、時と共に強度が増し、色も内部の鉄分が酸化して、象牙色、ベージュ、ピンク、薄紫に変化する。湿度の極端に低く澄んだ空気を通し、朝日はそれらの石をバラエティに富んだ黄金、すなわち輝きそのものに変える。今日では市内のいたる所に緑の草木が計画的に植えられているが、もともとのエルサレムを特徴づけていた景色は「石ころだらけの畑、石がごつごつした山、石が剥き出しの峡谷。石の屋根、石の塔、おそろしく分厚い石の壁」[xi]で、それはエルサレムの中心街を少し離れれば今もそのとおりだ。そして、朝日が見せてくれる黄金の都が消え去った後のエルサレムは、目もくらむ太陽の光の下、オリーブ山の上からはオパールのグラデーションからなる丘と家屋の集まりで、オリーブの葉まで銀色にまばゆい。

 

黄金の鉢底

エルサレムは敬虔な者も精神異常者も、純真無垢な巡礼も狂人も、……おなじようにひきつける。

- A. エロン 『エルサレム』[xii]

 

エルサレムを「その底にサソリの蠢く黄金の鉢」と形容したアメリカ人外交官がいたという[xiii]。たしかに、ここは辣腕の政治家、外交官、軍人、そして聖職者を悩みに悩ませてきた。ここでは2つの民族と3つの唯一神宗教が反応しあいながら強烈なエネルギーを噴出している。そしてその引力に世界中の人々が引き寄せられていることは、一介の旅行者にもよくわかる。遠景だと白っぽく見える街並みは、一旦その中に降り立てば、強烈な日光の照り返す場所と、建物やアーケードの作り出す漆黒の影だけで、あらゆる中間色を拒否する世界の縮図のように思えてくる。人々は痛いほどの日差しを避け、日陰から日陰へとすばやく移りながら歩く。慣れないうちは、くるくる変わる明と暗のコントラストの繰り返しに眩暈を覚える。

街の中では自らの宗教的アイデンティティーを強調するいでたちの人が目をひく。ユダヤ教徒は祈り用のショールを肩にかけたり、小さな頭蓋帽を被ったり。長い巻き毛のもみ上げの神秘派や真夏でもフロックコートに毛皮の帽子の正統派もいる。イスラムの信徒は祈りのために小さな絨毯を巻いて携えていたり、女性は細いヒールで長いドレスとベールをはためかせて歩く。キリスト教からは黒い筒状の帽子に黒髭・黒服のギリシャ正教、フードつきの茶色い僧服のフランシスコ会士、とりどりの修道服を着た尼僧たち……。加えてオリーブ色の軍服の武装兵士はいたるところにいるし、自動小銃をかかえた休暇中の男女の兵士もよく見る。

すれ違いざま、人々は影におおわれた眼窩から一瞬、必ず矢のような視線を放ってくる。ここに暮らす人々は自分が今どこで何をしていて、周囲がどういう状況にあるのか、すれ違う人間は敵か味方か、瞬時に判断を余儀なくされている。平和ボケの日本から来た身にはその視線の矢が当初はこたえた。あげくに夜中、ふと目醒め、厚いカーテンの隙間から射し込む月光が部屋の闇をざっくりと分断しているのに、はっと飛び起きたこともあった。しかし、帰国してしばらくすると、あのコントラストと緊張感がエルサレムの魅力の一部であることに奇妙ななつかしささえ覚えるのだ。

エルサレムを訪れる観光客や巡礼の中には、実際に精神に異常をきたした人が200人を上回った年もあった。そういう「エルサレム症候群」に罹った人のための専門医療施設まであり、適切な治療を受けると殆どの人が数日でケロリと「正常」になる。その多くは敬虔なプロテスタントのアメリカ人だという。しかし、街角で派手なマントを肩に、厚紙に金紙をはった王冠を被り、ダビデ王だと称していたアメリカ英語の男性を見たことがある。大預言者「エリヤ」や「イザヤ」もいるし、「メシア」だってちょいちょい出現するとも聞いた。エルサレム症候群の原因は、想像していた聖地エルサレムと聖俗混沌の現実とのギャップだろうと言われてはいる。私自身の体験からは、陽光を受けて色彩に充ちた世界が、日陰ではモノクロームに反転し、たちまち寓意性を帯びる、そのような転変の激しさにも原因があるように思う。いずれにせよ、この症状で治療を受けた人々の多くが、その経験をネガティブには評価せず、いい経験をしたと振り返っているあたりが聖地エルサレムならではではないだろうか[xiv]

 

黄金と瑠璃

わたしたちはたぶん遠い昔からこの世の外に向かってひらいている耳目を持っていて、

いつもははたらかぬそれにかの笛の残韻がとび込んできたのだが……

-石牟礼道子「泉のような明晰」(阿部謹也 『ハーメルンの笛吹き男』巻末解説)[xv]   

 

わずか3度のエルサレム滞在の全部を合わせてもひと月あまりだというのに、私はエルサレムに「帰りたい」と思うことがある。そういう時、私は時空を越えてエルサレムの日没をノートルダムセンターのテラスで迎えている。東西エルサレムのちょうど境界線上にあり巨大な要塞のようなこの建物は戦略的に重要な地点であるため、石の壁には無数の弾痕が残っている。眼下に東エルサレムの市街が扇状にゆるやかに起伏し、正面遠景にヘブライ大学のあるスコーパス山を見上げることができる。市街のこちら側には高層ビルが無い分、景色に空の占めるスペースが広く、大空は太陽が傾くにつれて瑠璃色を深めていく。高地特有の夕暮れの涼しい風が吹きわたるなか、今ごろは「嘆きの壁」が陽光を浴びて黄金に輝いているだろうと思う。日中と夕方の温度差でしっとりと露をふくんだ壁はまるで涙をためているように見えるかもしれない。

この空の色の石、ラピズラズリは磨くと金の斑点が現れる。古代オリエントの人々は瑠璃と金の妙なる配色を古くから知っていただろう。中東諸国では黄金に瑠璃石を配した見事な宝飾品が多く出土している。刻々と瑠璃色の深まる空の下のエルサレムを眺めていると泥沼化するイスラエル・パレスチナ紛争はあまりにも哀しい。泥を落とし、磨き上げ、異なった民族と宗教の人々が、瑠璃石とその中の金の斑点のように、溶け合わずにくっきりとそれぞれを引き立て合う存在となれないものか。アウトサイダーの私たちにできることは少ないが、小さなひとつのこと、それは自分の世界の人々に、自分の言葉で黄金のエルサレムを語ること、そう私は思っている。そうすれば、聞く人の心の耳に、エルサレムは必ず自らの輝きをもって自分の歌を歌い始めるだろうから。

 



[i] W.ブレイク著・寿岳文章訳 『エルサレムへの道 ブレイク詩文集』 西村書店, 1947, 表紙見返し.

[ii] T.キニーリー著・幾野宏訳 『シンドラーのリスト』 新潮文庫, 1988, 199頁.

[iii] 拙訳, 詩(ヘブライ語/英訳)は以下のウェブサイト参照:

Y.Levine, “The Career of a Song”, International Wall of Prayer ( http://www.internationalwallofprayer.org/Index-001-Jerusalem-of-Gold.html 2004.1.22)

[iv] E.ヴィーゼル著・岡谷公二訳 『エルサレムの乞食』 新潮社, 1974, 190頁.

[v] M.ギルバート著・白須英子訳 『エルサレムの20世紀』 草思社, 1998, 367頁.

[vi] K. Armstrong, A History of Jerusalem, London, Harper Collins Publishers, 1996, pp.398-399.

[vii] V.E.フランクル著・霜山徳爾訳 『夜と霧』 みすず書房, 1961, 78頁.

[viii] E.マール著・柳宗玄他訳『ヨーロッパのキリスト教美術』岩波書店, 1980, 145頁.

[ix] 柳宗玄『色彩との対話』 岩波書店, 2002, 61頁.

[x] A.エロン著・村田靖子訳『エルサレム 記憶の戦場』 法政大学出版局, 1998, 60頁参照.

[xi] 同上, 13頁.

[xii] 同上, 139頁.

[xiii] A.I.Killgore, “Vignettes From Jerusalem the Golden”, Washington Report, On Middle East Affairs, April/May, 1997, pp.34-35.

[xiv] A.エロン, 前掲書, 193-195頁参照.

[xv] 石牟礼道子「泉のような明晰」 (阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男』巻末解説) ちくま文庫, 1988年, 306頁.