曼 珠 紗 華

商学部2年 辻千絵美

 

~蜜蝋に 宿りし色の 曼珠紗華

溶かす うつつ は 間借り遊郭~

 

 彼岸。秋分の前後の数日。めりめりと地上に向かい花びらを広げる。長い蘂をぬっくりと空に向けた様子は不気味さをちらつかせる。反面、その容姿は妖艶であり、私は映画で見た遊郭の女郎などを思い浮かべてしまう。鮮やかな赤は、女郎の唇。紅い強かな欲望。紅い血の悲哀。それは、背筋を分け入って背骨をゾクリとわし掴む。首筋の皮膚にひんやりと悪寒を感じさせ、細胞を毛羽立たせる。長月、水粒子の少ない空気のせいなのか、この花の色は直球で私の眼孔を染める。山の裾、田を仕切る土手、道の縁。奇妙な色気で自己主張する。そして、彼岸の終わりと共に茎だけを残して彼女等の首はポツリと落ちる。誰かが見ていたわけではない。誰かが見ていたのは彼女が生きていた時のあの赫。

 人の世は借り物。この身も借り物。

 心臓が決められた動きを繰り返す。細く入り組んだ血管に血という液体が流れる。ガモフが言う。「いわゆる一つのビッグバンですね」。母の胎内より分離した時、一つの宇宙は一つの借り物に宿る。我の体はある一つの入れ物。内容物を溢れさせぬよう、外界と触れ合う薄い皮膚は絶えず緊張状態を保つ。入れ物の中で宇宙は育っていく。

 

  ホラホラ、これが僕の骨だ、

生きてゐた時の苦勞にみちた

あのけがらはしい肉を破つて、

しらじらと雨にあらはれ

ヌックと出た、骨の尖。

(中略)

生きてゐた時に、

食堂の雑踏の中に、

坐つてゐたこともある、

みつばのおひたしを食ったこともある、

と思えばなんとも可笑しい(以下略)。

「骨」 中原中也

 

入れ物は本能に従い、生き物の動作を毎日繰り返す。生きている間だけの借り物の肉体に栄養を与える。空腹中枢がホルモンを出し始めたなら、飯を食らう。口は有機物を欲し、体に埋め込まれた味覚がいやらしく味を探求する。口が意思を持ったかのようにグニャグニャと運動する。ひと時の満足を感じて、排泄する。なんとも無意味な行動をいささかの疑いも無しに、体は反復する事を辞めようとはしない。それは欲望の動きだ。物欲、邪欲、肉欲、食欲、禁欲、我欲・・・・。貪欲で、貪欲で仕様が無い。片方、理性は欲を複雑に図形化する。「欲の皮」とはうまく言ったものだ。欲は私の体を厚く包んでいる。理性に覆われた欲は本能の運動にもっともらしい言い訳をこすり付ける。「会食」「恋愛」「病気」。また、それは流行の洋服であったり、青いアイシャドウであったり、底の高い靴であったりする。欲は見世物のようにむき出しの状態で、町を歩く。人と喋る。大学の講義に出る。理性はみっともない欲の塊をせめて美しく見せようと努力する。精一杯の努力だ。知性で覆ってみたり、精神部分の清廉さを外部にちらつかせてみたりする。向かい合って話している欲の塊に気づいていたとしても、知らぬふりでおし通す。何故ならばそれは映し鏡のように自分にそっくりだからだ。知らぬ振りして、やり過ごす。嘘モノばかりで作られたこの世の中は嘘モノに違いない。

 

所詮この命意味など無い(中略)

ひょうひょうと青空を漂う雲は魂か(以下略)。

「ひょうひょうと」THE BACK HORN

 

 しかしながら、相変わらず私は今日もしがみついている。時代に振り落とされぬように。この社会の構造に振り落とされないように。我が家の大黒柱は一本柱で、五十を越えた父が今日も働く。父の父も働いていた。そのまた父も働いていたのであろう。そしてそのまた父も働いていたと思われる。労働して、労働して、労働する。

 

  なんと手ばかりが幅を利かす世紀だろう!(以下略)

「地獄の一季節」 アルチュール・ランボー

 

 肉体に精神が宿っているのか、精神に肉体が宿っているのか。どちらにしろ、常々、やがては朽ちる肉体のために生活する。本能に支配されず、肉体の欲求を免れた僅かな理性が身勝手な知識人を演じる。一見なんともみっともない。

 

  人生では、大切なことは何ごとにかかわらず、全てのことに対して先験的な

判断を下すことである。そうすると、実際、大衆が間違っていて個人が常に

正しいということがわかってくるのだ(以下略)。

『うたかたの日々』 ボリス・ヴィアン

 

この小説に登場するシックという若者は、目先の楽しみに囚われていた。労働して得た金銭を、陶酔する作家の作品をコレクションするために充てた。彼は自分の欲のために生きたように思う。だが、自分の彼女さえ幸福にすることができず、税金の取り立てに抵抗して警官に殺された。彼の肉体は息絶えた。生前の肉体に間借りしていた精神はその人生に満足したのだろうか。自分の目の前の道楽だけに呆けることは、身勝手な知識人的人格を一時、払拭しているように錯覚させる。しかし、それは錯覚だ。なぜならば、私は父の労働を素晴らしいと思うからだ。父はパチンコが好きだ。煙草が好きだ。ビールが好きだ。しかし、終日パチンコを打ち、煙草を吸い、ビールを飲むわけではない。自分の欲を犠牲にして、家族の欲を満たしてくれている。地元、最終電車、駅のホーム。父の日焼けし、皺を縦横無尽に走らせた顔。帰省する私を、薄暗い蛍光灯の下で微笑み迎えてくれる。

 

時間に削られた五十代前半の一つの老体。父の体の中に曼珠紗華が咲いている。

 

人体は、水分と脂肪と血液とその他もろもろ。しかし、確かに咲いている。赤い、赫い、曼珠紗華。それは確かに咲いている。後ろから迫り来る時間の中に。振り返った過去の時間の中に。前方に広がる掴み所の無い時間の中に。血液の中に。精神の中に。細胞一つ一つの中に。

赤はあの花の色。狂い咲き、紅を撒き散らし、精神を黄泉へと誘う。彼女の根っこを見たことがあるか、彼女が隠し持っているものを見たことがあるか。ドロリと咲いた赤い花の下。くすんだ黒穴。底なしの黒穴。ねろり、ねろりと、とぐろを巻く真っ黒な波の上に彼女は咲いている。

ヒトは、薄い皮膚の内側にどっぺりと黒い球根を這わせている。それはある個人の宇宙であり、万物だ。あるいは、精神とも言う。この要求の多い球根のために、ヒトは労働する。生活する。生理的行動が勝手にでしゃばる。しかしながら、あくまで表面はお上品に。薄い皮膚の袋は頑丈に縫い合わされている。それはおよそ曼珠紗華に違いない。危なげな美しさは内に、黒い悲しい欲望を秘めているからなのだろう。限りある肉体に、迫り来る時間に、怯えながら。ささやかな欲望を満たすために、今日も曖昧な世界を泳いでいく。

 

 ひらひらと、色がちらつく。くらくらと、感情がうずく。

 

摂氏二十度以下の肌寒い午後五時過ぎがちょうど良い。梅田の歩道橋、高架から見下げる路上。鉛色の息を吐く車体、家々の屋根、幾つかの感情を持った肉体の群れ。夕暮れの光が乾燥した空気に、不安の陰を染み込ませ始める。ちらり、ちらりと哀愁の匂いをくすんだ空間に感じる。西の空が本日最後の光を明日へと開放すると、月が光をまとう。星が目覚める。太陽光が物陰に封じていた、人間の生に対する悲哀。月光が優しく、それを霞んだ闇の空気に滲ませる。昼間の色の濃すぎる世界からしばし安息の時間。光が弱まってくると、人間の本性を幾分見返す時がある。それは、家族であったり、友人であったり、尊敬する詩人であったりする。ごちゃ混ぜの色の世界で、彼らの清清しい色に出会えたことを考える。

ヒトは二色の色を持っていると思う。一つは自己主張の色。もう一つは人間の色。一つ目の色は、エゴイストだ。自分勝手に生きる。二つ目の色は、同情色だ。生きていくために互いを支えあうための。人間はこの色で繋がっている。寂しさを紛らわすために。この色がエゴの部分を抑え、他色が混じりこんでくることを許す。これも、本能の一つなのだろう。

幾億のヒトは限りなく広がる数多の色。赤い曼珠紗華を体に宿し、黒々しいエゴを隠し持つ。私は、ほんの一握りのヒト達とすれ違うが、目さえ合わさない。言葉を交わすこともない。無数のヒトが私の耳元で囁く。私の肌に触れる。その中で、限られた数名、ほんの数名の人間だけに微笑む事ができる。他者の一つ目の色を受け入れ、二つ目の色を認知して繋がりあう。これが、友情の始まりなのかもしれない。そして、識別しあった複数の色達はしばしば、互いの持つ球根の毒を抜き合う。だからこそ、私たちは生きていけるのだろう。

 一人、一人は群色の中の単色。すべての人間の色を正確に識別することは不可能だ。交じり合うことを知らず、時に反発しあう。だが皆、一つの同じ色を持っていることを忘れてはならない。単色の中には血液が流れていることを。そして、毒抜きしあえる時を待っていることを。詐欺師的な世の中で生きていると、他者の一つ目の色ばかりを気にしすぎる。確かに見つめることを忘れ、ぞんざいな目線を投げつける。すれ違う、名を知らぬ無数の色。彼らの残像だけが網膜の黒い部分に焼け付く。名を与えられず、見つめられることも知らず、死んでいく様は、あの花のようだ。そしてまた、角度を変えればその花は自分自身なのだ。膨張し続ける時間の中で、息詰まる程しかない短い時間。私たちはその時間という肉体に、色を灯す。あの花のように。わずらわしい此岸の原則など忘れ、命の蝋燭が消える前に、私たちは知るべきだ。互いの体を流れる曼珠紗華の存在を。期間限定の時間の中で、僅かな人々と触れ合うためにも。膨大に広がるヒトビトを人として認識するためにも。

 色の識別を許さないヒトビトの虚ろな顔が今日も交錯する。道の上で。厚かましい顔が所々に点在する。そして私もその一部に紛れる。惨めにも私は、この世でこの眼と、この鼻と、この口と、この輪郭によってしか、自己を把握することができない。他との確かな、境界線はここに集約されている。本当に精神など存在するのだろうか。此岸に漂着したこの魂の、落とし前をつける時。問題児の肉体から精神が解き放たれる。宗教も、国家も、陸地も海も、母も父も友人も、生きるがために、精神と外界とを結び付けていた全てのメディア。足かせが外される時。体の中で曼珠紗華の首が落ちる。あの花のよう。誰にも声をかけられることなく、真っ赤な色は漂白される。無色となった魂に残る色は一つ目の色。自分だけの本当の色が残ることを期待したい。「私」という自我が存在したということを。

 

青空と雲の彼方で、何かのプロペラが回転する音がする。気だるく黄色い陽の光がベランダに流れ込む。部屋の中では電気が供給される音が充満する。毛の長い絨毯に片頬をすりつける。両の手足を無造作に転がして、午後二時が過ぎていく。生きているのだと、遠くで赫い曼珠紗華が群れ騒ぐ。

 

 

<引用文献>

      『中原中也』(加藤周一編・解説), 潮出版社, 1991. (近代の詩人 ; 10)  224頁

      『ランボー全詩集』(宇佐美斉訳), 筑摩書房, 1996. (ちくま文庫) 248頁

      ヴィアン『うたかたの日々』(伊東守男訳), 早川書房, 2002. (ハヤカワepi文庫 ; epi 14) 7頁

引用聴覚資料>

      『人間プログラム』(CD), 作詞/作曲/編曲: THE BACK HORN, ビクターエンタテインメント, 2001/10/17.