色彩の再発見と色彩論の再構築序説

-電子メディア時代の色彩におけるアウラ喪失とその復権-

 

総合政策研究科博士課程後期課程3年 山本龍彦

 

 インターネットに象徴される現代の電子メディア時代の色彩の特徴は、その内部から光ることによって色彩が生まれる光色ということにある。本論は、この光色の浸透が現代人の色彩感覚を変容させていることを考察するとともに、それがベンヤミンのいうアウラを喪失させ、我々の自然観や世界観に影響していることについて論究し、失われてゆく自然な色彩感覚や世界観とアウラの復権を、水墨画の白黒表現に内包された「一即多・多即一」の華厳思想から導きだされる色彩論と、モノクロ写真のテクスチュアのもつ独自の存在感に求めてゆく。

換言すれば、本論は、水墨画の白黒表現の中にあらゆる色彩を見ることで、我々日本人が本来もっていた色彩感覚を再発見し、モノクロ写真に映しこまれた様々なテクスチュアのなかにその存在感と色彩をイメージし感じとる行為を媒介として、電子メディア時代の色彩論を再構築する試みである。それはまた、失われゆくアウラの復権への理論的構築への序説でもある。

 

■電子メディア時代-浸透する光色と色彩感覚の変容

人類はテレビというメディアの出現まで、その内側から色彩の世界が生まれる光色をもちえなかった -色彩は反射光から生まれる- のであり、その光色は電子メディアの隆盛によって、さらに我々の日常に浸透しているのだ。だが、人類はテレビの発明までは、太陽以外に、自らが輝いて色彩を生起させる光色を見たことがなく、この光色こそが現代の色彩を特徴づけるものであり、また我々の色彩感覚にも大きな影響を与えているのである。

テレビの登場以前、我々の見る世界とその色彩とは、物質の表面の反射光がすべてであり、映画のスクリーンも透過光とはいえ、他の光源によって初めて色彩が生まれるのである。そして現代人は、いまやテレビと電子メディアの光色の世界に住んでいるといっても過言ではなく、日常のほとんどの時間を、これらの画面に相対してすごしており、この極めて現代的な環境が、我々の色彩感覚や世界観に影響しないわけがないと考えられる[i]

光色の特徴はそれが現実の色彩ではなく、あくまでヴァーチャルな仮想の色彩であるということである。そして、ボードリヤールが指摘するように、テレビと電子メディアの画面はスクリーンそのものであり、また我々の頭脳の中に存在する[ii]。つまり、我々は無意識的にこれらの画面に洗脳されているのであり、現実の世界よりもこのヴァーチャルな世界のリアリティを信じているといっても過言でないことは、かつて現代美術家のロバート・ラウシェンバーグが「オープン・スコア」と題するハプニングで、実際のテニスの試合をモニター画面に映しだして観衆に見せる行為を作品とした例でも証明できよう。我々はもはや、目の前の現実よりもテレビや電子メディアの画面の方を信じる存在なのである[iii]

そして、同様のことが色彩に関しても生起する。我々は、モニター画面の、現実にはありえない色彩にリアリティを感じてしまうのであり、自然の中の色彩はその確認のために存在するようになった。このことは、テレビで見た観光地へ行って実物を見たときに感じる違和感や、またインターネット・ショッピングで購入した商品の現物と、パソコン画面でそれを見たときのイメージの違いで商品にクレームを言う消費者の例でも理解できよう。

だが、光の三原色と色材の三原色とは別であり、モニター画面上の透過光の色彩は実際にはありえない。我々は、この現実には存在しない色彩の世界の住人であり、その色彩感覚は変容している。ここから生起することはヴァーチャルな色彩への偏愛であり、現実の色彩に対する知覚感覚の衰弱であり、また色彩が多様な物質のテクスチュアに対する反射光によって成りたっていることの忘却である。そして、その多様な物質の様々なテクスチュアに対する反射光が、その物質独自の存在感とアウラを発散していることの看過である。

多様な物質が、その各々独自のテクスチュアに対する反射光によって固有の色彩を生起させているということは、色彩はそれを生じさせている各々の物質やメディアの性状をぬきにしては実は論じられないということである。だが、従来の色彩論は、そのほとんどがこの視角を欠落させてしまっている。例えば、同じ色相と明度と彩度をもった赤にしても、シルクスクリーン版画で表現された赤と陶磁器における赤、そして電子メディアの画面上に再現される赤はまったく異なった赤なのである。シルクスクリーン版画の赤は、インクが厚く盛り上り独自の暖かさや華やぎをもっている。だが陶磁器のそれは、深く沈潜した重みのある赤を表現している。そしてパソコン上の赤は透明感があり、自ら輝く赤である。

この視角による思考が従来の色彩論に欠落した死角となっている。多様なメディアが存在する時代に生きる我々は、各々のメディアが人間に及ぼすインターフェイスとしてのそれぞれ固有の働きを包摂した視角から、その色彩論を出発させなければならないのである。  

 この故に本稿では水墨画とモノクロ写真を例にとって、両者のメディアとしてのインターフェイスの働きに着目し、水墨画の白黒世界こそが実はイメージを刺激して、あらゆる色彩を現出させる色彩曼陀羅ともいうべき芸術であり、モノクロ写真はカラー写真にはない確かな存在感で我々の想像力をかきたて、その写真に自己を投影して見ることで、そこに写しだされた「それは-かつて-あった」過去の色彩世界を再現するメディアであることから、この両者を媒介として失われたアウラと自然な色彩感覚の復権を求めてゆく。

 

■水墨画に見る色彩曼陀羅-「一即多・多即一」の世界観

色彩は一色のみでは成りたたず、必ず他のすべての色彩との相互連関性において成立する。青一色の世界があるとすれば、それはもはや色彩ではない。ひとつの色彩は他のすべての物質に対する反射光による色彩があってこそ、その色彩としての存在を成立させる。これは、仏教の華厳経でいう「一即多・多即一」の思想に通じている。世界を構成する事象と現象は単一では何ものも成立し得ず、それは幾重にも重なりあった事象と現象のネットワークとして成りたっているのである。換言すれば、事事法界と理事法界、つまり物質とその存在理由は、重重無尽に融通無碍に通じ合って構成され成立しているのである[iv]

自然の中の色彩も同様である。色彩も、無限の色彩の世界の相互連関性- 「一即多・多即一」- の内に成立しているのである。そして、光色の三原色とはグリーン・ブルー・レッドであり、これらの混色は白となり、色材の三原色とはイエロー・マゼンタ・シアンであり、これらの混色は黒となる。つまり、白と黒はすべての色彩を包摂しているとも言えるのであり、この白黒の世界にすべての色彩を託しているのが水墨画であると考えられる。

また、水墨画に代表される東洋美術のひとつの伝統的技法は、西洋絵画における透視遠近法を用いないことにある。例えば、西洋美術における風景画を鑑賞するとき、我々は自ずとその絵を見る視座を固定されてしまい、その位置からその風景を眺めることで、それを描いた画家の構想した美の観念の中へと誘導されてゆく。色彩も同様に、その画家が分節し、理解して描いた色彩の世界へ入りこむことが要求される。換言すれば、そこに我々の想像力の飛翔する余地は少なく、ひたすらその画家の描いた美の世界を鑑賞し理解しようと努めるのみであり、その絵画と鑑賞者の関係は一方的な方向づけとも表現できよう。だが遠近法を用いず、それを見る視座が固定されない水墨画の風景の場合、我々の心は自由にその描き出された風景の中に入りこんでゆける。つまり、我々は想像力によって、その風景の中に遊ぶことができ、これが水墨画の大きな特徴のひとつとなっているのである。

色彩においても同様である。光色の三原色である白と、色材の三原色である黒で表現された水墨画の世界とは、実はすべての色彩を白黒に象徴させていると考えられる。我々は、想像力と記憶によって、その白黒世界を華麗な色彩の曼陀羅に変容させることができるのである。だが、西洋絵画における色彩は、その画家の観念の中に固定されており、我々の想像力でそこに他の色彩を見いだすことは不可能なのだ。イヴ・クラインの青一色のモノクロームの作品は彼の構想した世界そのものであり、それ以外の色彩の存在を許さず、その表現においては青そのもの絶対的世界なのである。この背景には、荒涼とした砂漠から生まれた一神教の影響が存在する。逆に四季の移ろいをもつ豊かな風土に育まれ、山川草木悉皆仏性という、仏教思想を背景とした我が国との文化の異なりも見逃せないだろう[v]。 

また油絵の厚く塗られた絵の具の層は華麗な色彩を媒介として、その画家の個性と世界観を強要して想像力の飛翔を規定し、彼の構想した美の観念へと我々を一方的に方向づける。だが水墨画のほとんどマチエールとはいえないような筆痕と、それが定着されている繊細な和紙を媒介とした白黒のストイックな表現には想像力の関与を必要とし、この想像力の動員によって、我々はそこに自由に思うがままの色彩曼陀羅を現出させ得るのである。

そして、我々はこの豊かな自然と四季という風土性に培われた、日本人固有の豊かな色彩感覚を見失ってはならない。電子メディアの色彩の世界に埋没して我が国固有の色彩感覚を喪失させ、さらにその背景に存在する自然観や世界観を見失ってはならないのである。 

山川草木悉皆仏性という思想からはまた、我々がよく口にする「おかげさまで」という考え方が導きだされる。この世界のすべてが前述の華厳の曼陀羅世界 -すべての事象と現象に成仏する可能性があり、「一即多・多即一」の重重無尽に融通無碍に関連しあって成立する事象と現象のネットワーク- であり、我々はそのひとつひとつが「おかげさま」という相互連関性をもって成立している。そして、水墨画に見いだされる白黒表現に託された色彩の曼陀羅こそ、その象徴であり、ここから日本人固有の自然観と世界観が導きだされる。

そして、この事象と現象のネットワーク、つまり世界は重重無尽に融通無碍に連関し、それらの相互関連性によって成りたっているという考え方からは、現代社会に特有の諸問題 -例えば環境問題- などは起こりえないのである。「おかげさま」で成りたつ世界を認識するとき、人は自然に対して謙虚になりその恩恵に感謝する。その媒介となるものが我々日本人が本来持っていた自然観と世界観であり、その基底をなしているのが四季移ろいゆく豊かな自然の中の色彩である。そして、それを白と黒という、すべての色彩を内包した象徴的表現に託し、想像力によって、その色彩の世界を現出させるのが水墨画なのである。

我々は、この日本人固有のかけがえのない文化の中に、電子メディアによって変容した豊かな色彩感覚と自然観、そして世界観の復権の可能性を見いだすことができるのである。

 

■モノクロ写真の存在感-「かつて-あった」色彩世界

 電子メディアによって変容させられつつある、我々の色彩感覚を蘇生させる可能性を秘めたもうひとつの媒体はモノクロ写真のもつ独自の存在感である。バルトが言うように、写真は、そこに映しだされた対象が「それは-かつて-あった」[vi] こと、そしてその対象を写真が忠実に映しとって定着させているが故に、我々はそこに真実性を感じとるのである。我々が写真に真実性を感じるとき、実はそこに自己のイメージを投影して感情移入して見ているが故に、その写真に真実性を感じることを見のがしてはならないのである。例えば、ファッション写真は、その写しだされたモデルに自らのイメージを投影して感情移入してみるが故に -そのファッションを着た自分を想像することで- 成立し、そのファッション写真が真実性をおびたものとして、現前に立ちあらわれてくるのである[vii]

 また写真はベンヤミンの指摘する、複製技術時代におけるアウラの減少が少ないメディアである。アウラとは複製の不可能な一回性の芸術が保有する聖性であり、独自の存在感であり、ベンヤミンは、このアウラが印刷や写真という複製技術の普及によって消滅したことを主張する。だがドブレが言うように、写真はそのアウラを消滅させたのではなく、大衆に拡散したことは葬儀写真、つまり遺影のもつ畏怖感で端的に証明できるのである[viii]

また、他家の欄間に飾られたその家の祖先の写真にも我々は、同様の畏怖感を覚えるのだ。

 そして、写真に表現される存在感は遺影がそうであるように、カラー写真よりもモノクロ写真の方が圧倒的に大きいのである。前述の水墨画と油絵との比較考察でも明らかなようにモノクロームの世界は、我々の想像力を刺激し、その自由な飛翔を必要とするからである。そして、その印画紙の表層の黒化銀の集合でしかない、白から黒にいたるグラデーションのトーンが、映しこまれた対象の存在感をそのテクスチュアを媒介として、逆に強調しているからである。モノクロ写真は映しこまれた対象のテクスチュア、つまり質感を表現するメディアであり、それが我々のその対象に関する記憶を呼び覚ますのである。

我々は、自分の子ども時代の一枚の写真を前に記憶をかき集め、想像力を駆使してその

写真に映しこまれた状況を思いだそうとする。そして、その「かつて-あった」世界が、心の中にありありと現前するとき、その色彩もまた同時によみがえってくるのである。

 この理由で、モノクロ写真は水墨画と同じ図式で、その白黒表現を媒介として、そこに映しこまれた色彩を想像力のうちに現出させる。10年前のツィードのジャケットを着た私のモノクロ写真は記憶と想像力によって、そのツィードの色彩ばかりか、そのテクスチュアさえも -固有の存在感とアウラを- 再現してくれる。だが、カラー写真やデジタル表現のそれは薄っぺらな色彩の表層でしかなく、我々はその色彩に違和感を覚えるだけであり、存在感は逆に希薄だ。カラー写真でその色彩に注目するとき、我々の記憶と想像力の飛翔の余地は少ない。それは単なる記録写真、あるいは証拠写真的な性状が強いからだ。

モノクロ写真は真実性と存在感を特徴とし、記憶を再生させ想像力を飛翔させることで、「かつて-あった」世界の色彩を現前させるメディアである。我々はモニター画面をはなれ、一枚のモノクロ写真を前に、その独自の色彩世界を現出させることができる。それはまた、水墨画における想像力の色彩曼陀羅と同様に、電子メディアによって変容されつつある我々の色彩感覚と日本人独自の自然観と世界観の再生へと、そして電子メディアの中に失われゆくアウラの復権を媒介とした、新たな文化創造へとつながっているのである。

 

註 記



[i] M.マクルーハン他『マクルーハン理論』大前他訳 平凡社200342

1967年当時に、米国の高校生が見たテレビの時間は15,000時間だが、授業を受けた時間は10,800時間である。これにインターネットに費やす時間を加えれば、我々は膨大な時間をモニター画面に相対している。

 

[ii] ジャン・ボードリヤール『誘惑の戦略』宇波彰訳 法政大学出版会1985219

映画はイマージュであるが、テレビとインターネットの画面はスクリーンそのものであり、その故にイマージュではなく、頭脳の中に存在して我々に催眠術をかけるものであるとボードリヤールは主張している。

 

[iii] 東野芳明「現代観衆論」『戦後日本思想大系12美の思想』所収 羽仁進編 筑摩書房196985

これは1966年に米国の現代美術家であるロバート・ラウシェンバーグの「オープン・スコア」と題された作品であり、ハプニングの一種である。この作品は、目の前で起こっている事件をテレビというメディアを通してしか見ない、あるいは信じようとしない我々現代人の矛盾を観衆につきつけた作品なのである。 

 

[iv] 高楠他編『大正新脩大蔵経』平川他編『講座 大乗仏教第3 華厳思想』春秋社1983年等参照

ひとつの事象と現象の中にすべてのそれらが含まれ、またすべてのものがひとつの事象と現象の中に内包されているという、事象と現象間の相互関連性を華厳思想では「一即多・多即一」と言い表す。現象のネットワークとして世界が存在するのだ。また事とは事象を意味し、理とはそれが生起する理法を意味する。それらもまた現象のネットワークとして、その相互関連性の内に融通無碍に生起するのがこの世界である。

 

[v] 和辻哲郎『風土 人間学的考察』岩波書店193518頁~20

人間存在のありよう、そして民族の社会的あり方は、そのおかれた固有の風土の影響ぬきには論じられない。アジア・モンスーン地帯に属する我が国は稲作に適した四季と自然の恵みに満ちている。この故に、日本人には、あらゆる事象と現象に仏性が宿っているという汎神論的考え方が受け入れられたのである。

 

[vi] ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』花輪光訳 みすず書房198593頁~95

絵画は現実を装うだけであり、言説は記号の組み合わせである。写真のみが事物がそこにあったことを否定できないとバルトは主張する。それは現実のものであり、過去のものであるという二重の措定である。

[vii] セルジュ・ティスロン『明るい部屋の謎』青山勝訳 人文書院2001108

あらゆる写真は眼差しに対して罠をしかけるとティスロンは主張する。そのひとつの表れが鏡像的疎外と彼が名づけた、写真に対する自己のイメージの投影であり、ファッション写真もこの効果を利用している。

 

[viii] レジス・ドブレ『メディオロジー宣言 レジス・ドブレ著作選』西垣通監修NTT出版1999188

写真は貧しき者の聖骸布であるという表現でドブレは写真の持つアウラを肯定する。聖骸布のキリストの顔は刻印されて託されたものであり複写ではない。この故に写真とその本質を同じくすると彼は主張する。