安田定則宛川村純義書翰

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川村純義 かわむらすみよし

天保7(1836)年~明治37(1904)年

薩摩藩士族、海軍軍人。薩摩藩の選抜を受けて長崎開成学校海軍伝習所で学び、嘉永5(1852)年、中小姓に任命されて藩に仕える。戊辰戦争では薩摩城下小銃四番隊長として活躍した。明治2(1869)年7月に明治政府が兵部省を設立すると、11月には兵部大丞となって海軍業務を統括。同3(1870)年2月に海軍掛、11月には海軍兵学寮学頭に任じられ、同5(1872)年2月、海軍省が成立すると海軍少輔となる。征韓論論争では中立の立場をとった。同7(1874)年8月、海軍中将に進級して海軍大輔となる。同10(1877)年の西南戦争では、有栖川宮熾仁征討総督の参軍として従軍した。この書簡を作成した同11(1878)年5月、参議兼海軍卿となる。海軍卿在任中は軍艦建造の建議や、鎮守府の設置などによって海軍軍備の拡張に尽力した。同21(1888)年に海軍卿を退官すると、枢密顧問官に就任。同27(1894)年に日清戦争が勃発すると、軍事視察と称して旅順に渡り、威海衛攻撃を進言した。