安田定則と安田定則関係文書について

書翰の宛先となっている安田定則(1845年~1892年)は、薩摩藩士族であり、中央政府の命令によって薩摩藩が東京に出兵した明治2(1869)年9月には「徴兵第二大隊隊長」を命ぜられていた。一時帰国後、西郷隆盛が勅命を受け、親兵を率いて上京する明治4(1871)年3月には、それに従って再上京し、廃藩置県直後の7月23日には、陸軍大尉に任官している。

安田は、開拓使の実力者であった黒田清隆との関係が深かったため、明治4年10月、開拓使大主典に任じられてからは、一貫して黒田の腹心的な役廻りを開拓使東京事務所において勤め、黒田が東京を離れる時には長官代理を命ぜられた。また、黒田の朝鮮遣使や西郷軍追討指揮の際には、黒田と行動を共にしている。同15(1882)年2月、開拓使廃止後は農商務大書記官、その後、同19(1886)年5月には茨城県令、同24(1891)年12月には貴族院勅選議員と、薩摩閥の重立ちの一人として順調な官歴を経たが、同25年3月、ランプで火傷を負ったのがもとで、3月8日に没している。

安田宛の書翰は、数は少ないながらも、明治初年代や10年代において、薩摩閥と黒田グループが、どのような発想で行動していたのかを窺わせる好史料である。従来の政治史は、大久保利通、伊藤博文、井上馨といった、トップレベルの政治家の頂点的な行動のみをつなげて、その枠組みを組みたてる傾向があるが、安田史料は、明治前半期の政治について別の角度からとらえようとする研究者にとって、手掛かりとなる史料であると思われる。