丸岡莞爾 まるおかかんじ
天保7(1836)年~明治31(1898)年
明治期の官僚、歌人。土佐藩士吉村三助の長男。通称三太、長俊。鹿持雅澄から国学を学び、坂本龍馬らと交わり脱藩して長崎に住んだ。明治維新後、明治8(1875)年、式部権助に就任。以後、兼一等掌典、式部助、式部権頭を歴任。同16(1883)年、内務大書記官となり、内務省社寺局長などを経て、同21(1888)年、沖縄県知事に就任し、皇民化教育を推進。同25(1892)年7月、高知県知事に就任し、同年11月に退任した。歌集に「蒼雨余滴」がある。
長崎省吾 ながさきしょうご
嘉永5(1852)年~昭和12(1937)年
薩摩藩士族の長崎作右衛門の六男として生まれ、水本成美に漢学を学んだ。藩校造士館、昌平黌でも学び、外務省に奉職して、米国に留学し政治学を修得しミシガン大学を卒業。さらに在英日本公使館勤務を命ぜられ、外交官としてロンドンに約6年在勤。帰国後、宮内省に入り、式部官、宮内書記官、宮内大臣秘書官、調度頭、閑院宮附別当、宮中顧問官を歴任した。宮廷外交および皇室外交の裏方を長年務め、日本赤十字社、東京慈恵会、東京女学館の各理事も務めた。同郷の黒田清隆と親しく、「黒田清隆文書」には長崎からの来翰が多く含まれている。