安田定則宛(樺山)資紀書翰

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本書翰は10月26日としかないが、文中に「有喜世新聞」とあり、丁度、この日付と同日の同新聞1437号に、言及されている記事が出ているので、年は明治15(1882)年である。

樺山資紀は薩閥の中心人物の一人であり、明治13年10月、陸軍大佐を以て大警視を兼任、明治14年1月より16年12月迄警視総監を勤めた(その後海軍大輔)。軍部と警察が一体となっていたのである。民権派の言論活動に対しては、組織のトップが機敏に弾圧する姿勢を有していたことを示しており、明治10年代の政治状況を考える上での好史料となるだろう。

樺山資紀 かばやますけのり

天保8(1837)年~大正11(1922)年

薩摩藩士族、陸・海軍軍人、政治家。薩摩藩士橋口与三次の三男として生まれ、のち薩摩藩士樺山家の養子となる。明治元(1868)年の戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦いを皮切りに東山道軍に属して白河・会津方面へと転戦し、賞典禄八石を下賜された。同10(1877)年の西南戦争では、熊本城において谷干城を補佐し、西郷隆盛軍の攻撃を受けながら防戦に尽くした。その後は近衛参謀長に就任する傍ら大警視を務め、同14(1881)年に陸軍少将となって警視総督を兼任した。同16(1883)年には海軍へと転じ、同19(1886)年から海軍大臣西郷従道のもとで海軍次官を務めた。同23(1890)年には、第一次山県有朋内閣に海軍大臣として入閣。同24(1891)年からは松方正義内閣でも海軍大臣を務めた。大臣在任中には対清軍戦備に向けて民党と対立し、蛮勇演説を行ったことで知られる。日清戦争では海軍の作戦指導にあたり、戦争直後の同28(1895)年には台湾総督府の初代総督となった。同29(1896)年から第二次松方内閣で内務大臣、同31(1898)年から第二次山県内閣で文部大臣を歴任し、同37(1904)年には枢密顧問官となった。