安田定則宛(種子田)政明書翰

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本書翰は三月三日としかないが、宛先が開拓使の幹部であること、文中に「次官殿」とあるが、黒田清隆は明治7(1874)年8月2日に開拓長官となる迄は開拓次官だったので、黒田を指すと思われること、また差出人の種子田政明も薩摩士族だが、兵部省勤務中、明治6年11月29日、陸軍少将に任じられ、同日東京鎮台司令長官を命ぜられているので、明治7年のものと推定される。とすると、当時は征韓論分裂直後、薩摩士族が多数軍隊から離脱し、2月には佐賀の乱が勃発した、極めて軍事的に緊迫した時期に当っていた。種子田・黒田間で何が話し合われたのだろうか。

種田政明 たねだまさあき

天保8(1837)年~明治9(1876)年

薩摩藩士族、陸軍軍人。文久2(1862)年8月、京都で中川宮付きの守衛を務める。明治元(1868)年の戊辰戦争では薩摩藩六番隊長として白河・会津などに転戦、凱旋後は藩の常備隊二番大隊長となる。廃藩置県後は兵部省に出仕、兵部少丞となり会計監督を務めた。同6(1873)年11月、陸軍少将となり、同時に東京鎮台司令長官に任じられる。同8(1875)年、天長節の諸兵隊分列式においては総指揮官を務め、翌9(1876)年には特命全権弁理大臣黒田清隆に随行して朝鮮に渡った。同年に帰国後、熊本鎮台司令長官に転じたが、在任中に神風連の高津運記が率いる一隊に殺害された。