大山 巌 おおやまいわお
天保13(1842)年~大正5(1916)年
明治時代の陸軍軍人。薩摩藩士、大山彦八の次男として城下に生まれる。岩次郎、弥助と称し、次いで巌と改名した。西郷隆盛の従弟にあたる。急進的な尊王攘夷運動に加わり、文久2(1862)年、寺田屋事件に連坐して謹慎を命ぜられた。翌年の薩英戦争には、22歳で初陣し、イギリス軍艦の新式大砲の威力を痛感し、後に弥助砲を発明する機縁となった。戦後藩命によって、江戸の江川塾(江川太郎左衛門)で砲術を学び、戊辰戦争には砲隊長として出征して、関東・東北各地に転戦し、会津若松城攻撃に参加したが、銃弾を受け負傷した。明治3(1870)年、軍事視察のために渡欧し、同年起った普仏戦争には、プロシア軍に従って戦況を目撃した。同4(1871)年に帰朝し、兵部権大丞、ならびに陸軍大佐に任ぜられ、さらに陸軍少将に進んだ。そして、同年11月に再び渡欧して、主としてフランスに滞在し、軍政および砲術を研究し、同7(1874)年に帰朝した。帰朝後、陸軍少将にして陸軍少輔を兼ね、陸軍卿の山県有朋を輔けて、陸軍建設の事業にあたった。同10(1877)年、西南戦争が起ると、別働第一旅団司令長官として出征し、従兄西郷隆盛を討つという悲劇の人となった。同11(1878)年中将に進み、同年12月参謀本部次長となり、同13(1880)年に陸軍卿に任ぜられた。同24(1891)年、大将に進み、日清戦争起るや、同27(1894)年、第二軍司令官として出征し、旅順口、蓋平、威海衛の諸作戦に功を立てた。また、同37(1904)年、日露戦争が起るや、参謀総長として作戦指導にあたったが、同年6月に満洲軍総司令官に任ぜられて、出征した。総参謀長の児玉源太郎を補佐として、善断善戦し、功を立てた。大正3(1914)年、内大臣に任ぜられた。