北海道開拓使東京事務所宛(黒田)清隆書翰

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本書翰は9月25日としかない。宛先の上局は開拓使の東京事務所を指すので、黒田が北海道に行っている時、東京宛に出したとすると、明治8年、9年、11年の三ヶ年が該当する。その内明治11年は、米価上昇が続く年なので、同年を除外した上で、米価がこの月下落した明治8(1875)年と、一応推定しておきたい。文中の藤井は不明だが、向井三七は薩摩士族として、明治8年現在、開拓使に勤務している。北海道の米の需要と米相場の関係に、黒田長官自身が腐心していることを示す、北海道史上の好史料となるものである。

黒田清隆 くろだきよたか

天保11(1840)年~明治33(1900)年

薩摩藩士族、政治家、元老。慶應元(1865)年、坂本龍馬に面会し、西郷隆盛を助け、下関に赴いて木戸孝允に上京を促すなど薩長連合の成立に尽力した。明治元(1868)年からは北陸・東北両地方を転戦し、長岡、庄内の攻略に成功した。樺太をめぐっては対露強硬論に反対し、同3(1870)年に開拓次官に就くと対露和親に努め、石狩国に鎮府を置いて樺太・北海道を統括した。翌4(1871)年には米国へ出張し、北海道開拓の指導者としてクラークほか3名を招聘した。以来、同15(1882)年の開拓使廃止までの間、北海道開拓の最高責任者を務めた。同9(1876)年、特命全権弁理大臣として渡韓、日朝修好条規に調印した。西南戦争では征討参軍に任じられて熊本での戦闘に加わった。同19(1886)年から転地療養のため欧米を巡遊し、見聞記を『環游日記』としてまとめた。同21(1888)年から内閣総理大臣。翌22年2月11日の大日本帝国憲法発布にあたり天皇より憲法を授けられた。