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江戸時代の灘酒造業

関西学院大学が所在する兵庫県の阪神地域は、東を大阪、西を神戸に挟まれた場所に位置し、北には六甲山系が、そして南には瀬戸内海が迫る東西に長い平野部を形成している。そこには谷崎潤 一郎の『細雪』などの舞台にもなった古くからの閑静な住宅街と瀬戸内海沿岸部に広がる工業地帯との対照的な景観を作り出している。 西宮市の武庫川から神戸市の生田川に至る沿岸の「灘五郷」と呼ばれる地域は、江戸時代の中期(18世紀)から江戸へ販売する江戸積酒造業が発達し、今日に至るまで全国でも有数の酒造地帯を形成している。すでに近世前期から酒造地として栄えた伊丹・池田などの都市酒造業に対して、灘は農村を基盤とした在方酒造業地帯として出発し、短期間に飛躍的な発展を遂げた。その契機となったのは徳川幕府の酒造政策であった。米の生産を経済基盤としていた徳川幕府は、酒造業が米穀加工業であることから直接米価変動に影響を及ぼすことを懸念し、当初より酒造石高の制限、農村での酒造業の禁止など厳しい統制を行っていた。しかしこの政策が酒価の高騰を生み、税収の減収を招き、さらに米価の下落なども重なって、ついに宝暦4年(1754)には「酒造勝手造り令」が触れられ、酒造奨励へと大きく政策転換が行われた。

こうした政策を背景として、江戸積の上方酒造業の株仲間が結成された明和9(1772)年には、大坂・伊丹・池田・西宮などと共に、上灘・下灘の二郷も株仲間に加入し、これに今津郷を加えた灘三郷が灘酒造業の中核となった。後に上灘は東組(魚崎)・中組(御影)・西組(新在家・大石)に分郷し、この三郷に下灘と今津郷を加えた地域が江戸時代の灘五郷となった。さらに明治に入ると、このうちの下灘が脱退し、西宮郷が新たに加わり、現在の灘五郷となったのである(「阪神地域の図」参照)。

灘の酒造業が発展した要因にはこのような幕府の酒造政策も大きかったが、それにもまして灘酒の品質の高さにあった。リンやカリを大量に含む醸造に適した「宮水」、山田錦に代表される良質の酒米、酒樽・酒桶に利用された吉野杉、発酵とその管理に卓越した技術を発揮した丹波杜氏、六甲の寒風や海からの湿気といった気候など製造技術面においてすばらしい条件が揃っていた。また精米行程において水車を利用したことや、廻船による江戸への大量輸送に最適な港を抱える立地であったことなども灘酒造業が発展した要因としてあげられる。 関西学院大学図書館は、以上のような灘酒造業に関する古文書を多数収蔵している。この史料群約2500点は、本学の教員を務めた故柚木重三教授と故柚木学名誉教授が親子二代で収集したものである。柚木学教授はこれらの史料を使用して『近世海運史の研究』(法政大学出版局、1979年)を著され、これらの功績によって1982年には日本学士院賞を受賞された。今回のデジタル展示においては、その中から「酒造家」「生産・販売」「酒造仲間」「蔵人」についての史料を紹介する。

関西学院大学図書館