巌谷小波 いわや さざなみ
明治3(1870)年6月6日~昭和8(1933)年9月5日。
児童文学者、小説家、俳人。東京麹町平河町五丁目十番に、父修、母八重子の三男として生まれる。本名は季雄。号は、漣山人、大江小波、楽天居、隔恋坊など。中学時代、医師になることを望んだ父の期待に反して文学への道を選び、明治20年1月硯友社に入る。「我楽多文庫」に『真如の月』(明治20年)『五月鯉』(明治21年)『妹背貝』(明治22年)などを発表する。純愛ものが多く「文壇の少年屋」と呼ばれた。明治24年1月には博文館『少年文学叢書』の第一編として『こがね丸』を発表し、これが小波の明治児童文学における地位を不動のものにした。明治25年には「京都日出新聞」の主筆、明治28年1月からは「少年世界」(博文館)の主筆となる。以後『日本昔噺』『世界お伽噺』などを編纂し、童話口演をするなど児童文学に貢献した。
この書簡の書かれた時期は、日露戦争(明治37年2月~38年9月)の終わりごろにあたる。文中に、「皇軍」の「大勝」とあるが、ちょうど5月31日・6月1日の新聞には、日本海海戦の勝利が伝えられている時である。浩々歌客は、この年5月に「大阪朝日新聞」を退社、8月に「大阪毎日新聞」に入社しているが、その間に東京での別の就職先を探していたのだろうか。浩々歌客が上京の意思を小波に伝え、それに小波が応じた書簡と考えられる。
角田勤一郎 かくだ きんいちろう
角田浩々歌客 かくだ こうこうかきゃく
明治2(1869)9月16日~大正5(1916)年3月16日。
評論家、新聞記者。静岡県大宮町に生まれる。本名勤一郎。佐野天声の兄。別号は伊吹郊人、剣南道士、不二行者など。慶應義塾卒。学生時代漢詩を学んだ。宮崎湖処子のあとをついで、「国民之友」に文芸評論を掲げ、また「国民新聞」に随筆雑文などを書いて民友社系の評論家として出発した。そのころの小品小説をあつめたものに『詩国小観』(明治33年 金尾文淵堂)がある。かれはその後大阪朝日新聞社に招かれ、社会部記者となり、のちに大阪毎日新聞社に移った。このようにジャーナリストとして活躍する一方、かれは平尾不弧、薄田泣菫らと「小天地」の編集にあたり、「読売新聞」に文芸評論などをさかんに書いた。晩年には東京日日新聞社の学芸部長となった。角田は新聞人として活躍するかたわら長く評論家として活動した。