明治・大正の文学者たちの書簡と草稿

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内藤鳴雪『内藤鳴雪書簡』

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内藤鳴雪 ないとう めいせつ
弘化4(1847)年4月15日〜大正 15(1926)年2月20日。

俳人。伊予松山藩士内藤同人の長男として江戸三田一丁目松山藩邸に生まれる。幼名助之進、のち、素行、南塘、破蕉、鳴雪、老梅居主人とも称した。南塘はもともと漢詩の号であったのを当初の句に用いた、松山南郊の石手川による。11歳のとき松山帰住、藩校明教館に入り漢学を修めた。父同人が京都留守居役出役により京都へ遊学し、その間再度父とともに長州征伐に従軍した。明治2年東京に移り再興の昌平学校に入り、明治8年愛媛県官権参事としてもっぱら教育行政に当たる。明治13年文部省参事官に抜擢され、文部大臣森有礼の知遇を得て活躍、大臣暗殺せらるるにおよび官を辞した。「二君には仕え申さぬ紙衣かな」はその所思。旧藩主久松伯爵家の嘱託をうけ、旧藩青年教育育成のための常盤会の舎監となり、また史談会に列し史料編纂に従事、東洋哲学を志向した。明治25年46歳のとき、舎生の正岡子規に俳句を学んだ。子規、碧梧桐、虚子らとの蕪村句集輪講は子規逝去1週間前の9月まで54回つづき、貴重な文献となりかつ鳴雪を開眼せしめ、明治大正を通じての代表的俳句作者として活躍し、国民的俳人として親しまれた。

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