芥川龍之介 あくたがわ りゅうのすけ
明治25(1892)年3月1日~昭和2(1927)年7月24日。
東京市京橋区入船町に生まれる。号は澄江堂主人、俳号は我鬼を用いた。東大英文科卒。「羅生門」(大正4年)に続いて発表した「鼻」(大正5年)を夏目漱石に認められ、「芋粥」「手巾」(同)で文壇へ出た。「戯作三昧」(大正6年)、「地獄変」「奉教人の死」(大正7年)と芸術による現実の超克を主題として追究、〈刹那の感動〉に凝結する美学を展開、〈新現実主義〉の第一人者として活躍した。「舞踏会」「秋」(大正9年)「藪の中」(大正11年)、「玄鶴山房」(昭和2年)、童話「蜘蛛の糸」(大正7年)、「杜子春」(大正9年)など好短編を発表し続けたが、昭和2年7月に自殺した。遺稿「歯車」、「或阿呆の一生」など。
書簡文中の「御伽噺」は、「赤い鳥」創刊号のために執筆した「蜘蛛の糸」を指す。芥川は、連載中の「地獄変」を「ボムバステイック」と述べ、「蜘蛛の糸」についても「弱りましたあれで精ぎり一杯」と謙遜している。後輩の新進作家であり、「赤い鳥」の編集を手伝う小島への配慮と先輩としての姿勢が随所に見受けられる。「蜘蛛の糸」については、芥川が鈴木三重吉に筆削を依頼していたことが文中にも見える。編集者である三重吉は作品に感心しながらも童話としての平易さのために漢字をかなに改め、パラフレーズを増やし、文章に手を入れている。
小島政二郎 こじま まさじろう
明治27(1894)年1月31日~平成6(1994)年3月24日。
小説家。東京市下谷に生れる。俳号は燕子楼。慶應義塾大学文科卒。生後すぐに祖母の生家である小島姓を継いだ。明治39年に下谷小学校を卒業し、京華中学へ入学。上級になって永井荷風に傾倒。明治45年に京華中学を卒業した。慶應義塾大学で荷風の講義を受けるつもりであったが、荷風が大正5年に慶應義塾を辞任したため、宿願をはたすことができなかった。後に慶應義塾を卒業した小島は、鈴木三重吉編集の「赤い鳥」の編集を手伝いながら、芥川龍之介の家に出入りしているうちに久米正雄や菊池寛と知り合った。大正11年に『一枚看板』で文壇に認められた。純文学から通俗小説、落語評論まで幅広く活躍し、数々の名作を残した。