明治・大正の文学者たちの書簡と草稿

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真山青果『角田勤一郎宛書簡』

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真山青果 まやま せいか
明治11(1878)年9月1日~昭和23(1948)年3月25日。

小説家。劇作家。仙台市裏五番町に生まれる。本名彬。19歳の時、杉浦重剛の日本中学へ入ったが、仙台に帰って二高医学部に入り、ここも3年で中退。薬局生や私立中学の国語教師を転々としたが、友人草野柴二のすすめで明治36年12月に上京して小説家を志した。明治38年3月、短編『零落』を「新潮」に発表して作家デビュー。その年、小栗風葉の門下に入った。やがて国木田独歩とまじわり自然主義文学に深く身を沈めた。小説は下層民をとらえた『南小泉村』、『あの家この家』、『馬盗人』、『手斧』、『家鴨飼』、『不生女の一生』などと、もう一方で家族関係に縛られて息もつけない自分の内部を追及する小説『茗荷畑』、『癌腫』などがあるが、明治44年、原稿の二重売り事件により文壇から姿を消す。その後、大正2年まで横浜市本牧にひきこもった。大正2年12月に新派俳優喜多村緑郎が青果を訪ねて劇界への登場をうながす。これにより青果は、新派の座付き作者として再出発、新派劇のために『一本杉』、『仮名屋小梅』、『浅草寺境内』などを書いた後、明治文学の脚色を手がけ、一葉の『たけくらべ』、独歩の『酒中日記』、柳浪の『今戸心中』などを書いた。そして、大正13年に『玄朴と長英』一幕を「中央公論」9月号に発表、以後は独自の劇作術を樹立して歴史劇の分野を開拓した。
この書簡において、青果は当時「大阪毎日新聞」の学芸部長であった浩々歌客に新聞の連載小説を執筆させてくれるように頼んでいる。この書簡には青果の置かれていた状況がよく現れており、必死に嘆願している様子が伝わってくる。結果的にこの願いは実現せず、明治44年に原稿の二重売り事件を重ねることになる。

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