大坂・西宮地域で作られた酒は、江戸中期頃までは他の商品と共に菱垣廻船と呼ばれる船によって輸送されていたが、元禄期頃(1688~1704年)から廻船問屋及び船頭の不正行為が多発した。その頃、伝法(現・大阪市此花区)にあった船足の速い「小早」と呼ばれる船問屋が注目されて、享保期(18世紀前期)になると、この船を前身とした新たな酒輸送専門の樽廻船が誕生した。この船は酒樽が納まりやすいように胴の部分が深くなっており、安定性のある優美な姿をしている。
この史料は、樽廻船問屋ごとに各々が保有している樽廻船名を書き留めた帳面であり、大坂樽廻船問屋6軒と西宮樽廻船問屋4軒に所属する樽廻船合計88艘が記載されている。とくに注目されるのは、右から4艘目の「同所(御影)嘉納次郎作船 利渉丸」である。嘉納次郎作の本家は現在も神戸市東灘区御影にある「白鶴酒造」の前身であり、次郎作はこの別家にあたる者で、船店を経営している。この嘉納一族の例にみられるように、江戸時代後期になると灘酒造家の多くは本家の酒店を中心に、樽廻船を分家・別家に所有させて船店を独立させ、一族で酒の生産から輸送までを独占する体制を形成するようになったのである。