大坂城炎上
4代目新助(定治郎)の日記のうち慶応4年(1868)正月3日から16日までの記事。この間の記事は2ヶ所に分けて書かれている。表紙は6代目新助(恒太郎)が付けたもの。
慶応3年(1867)10月14日、15代将軍徳川慶喜は朝廷へ政権を返上した(大政奉還)。しかし、その後も薩摩藩や長州藩を中心とした新政権と旧幕府の間では激しい対立が繰り広げられ、翌年正月3日夜ついに京の南で戦闘が勃発(鳥羽伏見の戦い)。戦いは新政府軍が圧倒し、6日に旧幕軍は総崩れ、大坂城に退却した。夜には慶喜が大坂城を脱出、江戸へ逃げ帰ってしまう。こうして大坂は大混乱に陥るが、10~11日に新政府の征討大将軍仁和寺宮嘉彰(よしあき)親王や薩摩藩兵、長州藩兵が大坂に入り、治安回復に取り組むことになった。
日記にも当時の混乱した状況が記されている。3日夜には土佐堀(現・大阪市西区)にあった薩摩藩蔵屋敷が全焼。7日には大坂の市政全般を担当していた大坂町奉行が退去。同時に罪人が牢屋から釈放された。また同日以降、毎日大坂城内で火事が発生し、10日の火薬庫の大爆発では、櫟原家の屋敷の格子や障子も破壊されている。こうした中、新助は4日に定吉、りう、慶三郎の子供3人を乾友七("乾村〔現・大阪市東住吉区〕の友七"か)のもとへ避難させている。9日には、「質入台帳」(経営帳簿)を友七へ預けるとともに、畳や諸道具を蔵へ仕舞い込んでいる。一方で、新助自身は、5日に薩摩藩蔵屋敷の焼け跡を見学し、親類や質屋仲間を見舞っている。また、8・9日には城の様子を見に行っている。10日以降は征討大将軍らの入坂により落ち着きを取り戻しつつあったようで、12日には乾に預けていた子どもたちを帰宅させ、翌日には蔵から畳や道具を出している。
参考文献 | 『新修大阪市史』第5巻、大阪市、1991年 宮地正人『幕末維新変革史』下、岩波書店、2012年 |