南の大火

5代目新助(定吉)の日記のうち明治45年(1912)1月16日の記事(抜粋)。

この日未明に南区難波新地四番町の貸座敷から出火した火事は、西からの烈風をうけいっきに東へ燃え広がり、千日前から日本橋筋をこえ、生国魂神社や谷町九丁目あたりにまで達した。明治42年(1909)の北の大火ほどではないものの、被害戸数4,779戸(全焼4,750戸)、死者4人、罹災面積10,946坪(33.3ヘクタール)、さらには生国魂神社や劇場・寄席なども被災する大惨事となった。この大火は「北の大火」に対し「南の大火」と呼ばれる。

当時も櫟原家の本店(本宅)は東区上町の神崎町に、新助が住む別宅は東隣の十二軒町(日記では別宅を「東」と呼んでいる)にあり、北の大火の時と同じく、家族へ被害が及ぶことはなかった。また、今回の被災地には貸家もなかったようである。そのためであろう、「午前三時半頃半鐘鳴りあれと、大暴風吹キ大寒へ起キル勇気無シ」とあるように、当初は緊迫した状況にはなかったようである。しかし、生玉方面へ火が廻るに及んで櫟原家にも緊張が生まれた様子がうかがえる。

なお、日記中の「あしへ館」は活動写真館と寄席からなる芦辺倶楽部を、「弁天座」は道頓堀五座のひとつの弁天座を指していると思われる。また、北の大火の項でも取り上げた、櫟原家と得意関係にある手伝の伊三が火事の状況を知らせに来ている点は、こうした関係の実態の一端を示しており興味深い。

参考文献

『新修大阪市史』第6巻、大阪市、1994年