
関西学院大学図書館では、大阪で質屋業を営む大店(おおだな)であった櫟原(いちはら)家の古文書を所蔵している。この櫟原家文書の最大の特徴は、江戸時代末の天保12年(1841)から昭和20年(1945)までの日記が連綿と残されている点にある。戦災などにより大阪市街の商家の古文書がそれほど多くは伝えられていない中で、商家の、しかも日記という日常生活に根差した史料がこれほど長期間にわたって残っていることは極めて稀であろう。
櫟原家文書は、同家のご子孫が本学卒業生であった縁で2003年に図書館へ寄贈された。総点数は520点。そのうち日記が173点を占める。そのほか「憂世の栞」という表題がつけられた新聞のスクラップ帳が320点もあり注目される。ただ残念ながら、質屋業や貸家経営に関する文書は数点にすぎない。
櫟原家の先祖は過去帳によれば、大和国平群郡櫟原村(現・奈良県生駒郡平群町)の住人であった。17世紀初め、豊臣氏や徳川氏によって都市建設が進められつつあった大坂の天満河内町(現・大阪市北区)へ移り、和泉屋与右衛門の名前で酒造業を始めたようである。その長男は天満屋茂左衛門を名乗り、順慶町三丁目(現・大阪市南区)、のち同町五丁目で酒造業を営んだ。それから3代後の茂左衛門の三男が天満屋新助であり、18世紀半ば頃、駿河町(同町は明治5年に神崎町へ編入。現・大阪市東区)に分家し、質屋を開業した。この天満屋新助(文化2年没)を初代とする家が櫟原家である。櫟原家(天満屋)は代々新助の名前を引き継ぎ、明治以降も質屋業を続けた。明治19年(1886)の大坂市区内の資産家などを調べた報告書にも、「質業 神崎町五十四番地 櫟原新助」と記載されている(『大阪経済史料集成』第1巻、大阪商工会議所、1971年)。
今回は櫟原家の日記の紹介を目的として、幕末の鳥羽伏見の戦いによる大坂城の炎上から昭和前期の大阪大空襲まで、近世・近代の大阪で起こった主な出来事に関する記事の写真と翻刻をデジタルライブラリで公開した。日記は、4代目新助(定治郎、文化11年生、明治18年没)、5代目新助(定吉、安政元年生、昭和8年没)、6代目新助(恒太郎、明治11年生、昭和20年没)の3代によって書かれたものである。このうち4代目新助(定治郎)の日記は、天保12年(1841)9月7日から明治18年(1885)3月24日までの31冊(横帳)。ただし、6代目新助によって明治44年(1911)から大正元年(1912)に裏打と綴じ直しが行われ、その際に1冊だったものを2冊に分ける、あるいは2冊を1冊に合綴するなどの処置が施されている。同時に、新しい表紙も付けられている。5代目新助(定吉)の日記は、明治24年(1891)7月10日から昭和8年(1933)2月9日までの92冊である。定吉は明治39年(1906)頃に神崎町の東隣の十二軒町に別邸を建てて居を移し、さらに大正12年(1923)頃には堺の三国ヶ丘へ転居している。6代目新助(恒太郎)の日記は、明治28年(1895)1月19日から昭和20年(1945)3月20日までの50冊である。恒太郎は昭和13年(1938)頃に大阪の邸宅を長男に譲り箕面へ転居している。
今後この日記が大いに利用され、近世・近代の大阪を対象とした都市社会研究の進展に結びつくことが期待される。
2014年4月
関西学院大学図書館