米騒動
5代目新助(定吉)の日記(「毎日記録」)のうち大正7年(1918)8月12日から14日までの記事と、6代目新助(恒太郎)の日記(「毎日記録簿」)のうち同年8月12日から15日までの記事(いずれも抜粋)。当時、恒太郎が東区上町の神崎町にある本宅(本店)に、定吉がその東隣の十二軒町にある別宅(東)に住んでいたようである。
大正7年の米騒動は、第一次世界大戦中の輸出激増に伴う物価高騰や、非農業人口の急増、さらにはシベリア出兵の憶測に基づいた地主の米の売り惜しみや米穀商の買い占めなどによって起こったものである。7月23日に富山県魚津町の漁民の妻たちが米の移出を差し止めようとしたことが発端となった。大阪でも米価が急騰し、市は公設市場で朝鮮産白米を廉価販売するなどの対処をはかったが、8月9日頃から今宮や天王寺あたりで群衆による米屋の襲撃が始まった。12日には市内全域に騒動が拡大、軍隊(陸軍第四師団)が出動するに至った。大阪府は14日夕方に夜間の外出禁止などを命じる府令を発令。これにより騒動は鎮静化していくことになった。
両日記によれば、8月12日には神崎町の米屋2軒にも群衆が押し寄せている。こうした事態に対し定吉が「上町も船場も米や((屋))大迷惑なり、買占人ニハ少しも不及、小売米商ハ気の毒」との感想を漏らしている点は興味深い。
13日の恒太郎の日記には「本日夕方ヨリ内本町及上町方面ノ八百屋・炭屋・酒屋等へ群衆押掛ケ」とあり、米屋以外の店へも群衆が向かったことがわかる。翌日には、八尾徳なる者や日本橋の山中いそが衣類や商品などを櫟原家に避難させようとしている。これに対し櫟原家は、群衆の標的になるのを懸念したのであろうか、「近所ノ手前商品ハ六ヶ敷、着物タケ預ル」などと対応している。
その他、北の大火や南の大火の項でも出てきた、櫟原家と得意関係にある手伝の伊三がここでも登場している。14日の恒太郎の日記からは、彼が仁丹(森下仁丹)とも得意関係にあったことがうかがえる。
参考文献 | 『国史大辞典』第6巻、吉川弘文館、1985年 『新修大阪市史』第6巻、大阪市、1994年 |