鉄道開通
2冊とも4代目新助(定治郎)の日記。後の表紙(「日々用事并贈答控」「毎日日記帳」)が本来の表紙で、前の表紙(「日記簿」)は6代目新助(恒太郎)が付けたもの。
よく知られているように、日本の鉄道は明治5年(1872)10月に新橋―横浜間が開通したことを始まりとする。その後、明治7年(1874)5月には大坂―神戸間が開通。さらに明治9年(1876)9月に大阪―京都間が開通し、京都―神戸間がつながったため、翌10年(1877)2月5日に鉄道開業式が行われた。
大阪―神戸間開通直後の明治7年6月3日の日記には、新助の長男定吉たちが梅田(現・JR大阪駅)から蒸気機関車に乗り、住吉で下車して、布引の谷から生田神社、湊川神社を観光し、蒸気船で帰阪したことが記されている。
また、明治10年2月5日の日記には、大阪で行われた鉄道開業式に新助も区総代人として出席した様子が記述されている。これによれば、明治天皇が京都から蒸気機関車で来阪し、11時頃梅田に到着したこと、式典には市街や郡部の区長・戸長・区総代人・町総代人、さらには学校の教師や生徒も参列したこと、式典後に天皇は蒸気機関車で神戸へ向かったことなどがわかる。なお、この段階の大阪市街地は4つの大区(第一大区~第四大区)に分けられ、その内部はさらに複数の小区に分画されていた。区長は大区の代表者、戸長と区総代人は小区の代表者、町総代人は各町の代表者であった。
参考文献 | 『新修大阪市史』第5巻、大阪市、1991年 |