北の大火
5代目新助(定吉)の日記のうち明治42年(1909)7月31日から8月2日までの記事(一部省略)。
日記にも毎日新聞の号外を引用する形で記されているように、同日早朝に北区堀江空心町二丁目にあったメリヤス製造販売業者の家から出火した火事は、折からの乾燥と強い東風に煽られてまたたく間に天満宮の北から西へと広がり、曽根崎・堂島方面を壊滅させ、福島にまで達した。翌8月1日早朝になってようやく鎮火したが、焼失11,365戸、罹災地面積369,438坪(1.2平方キロ)、罹災町数51町(うち1町全滅が20町)という甚大な被害をもたらした。この大火は「北の大火」あるいは「天満焼け」と呼ばれている。
当時の櫟原家は、被災地から離れた東区上町の神崎町に本宅を、その東隣の十二軒町に新助が住む別宅を構えていた。そのため家族が被害をこうむることはなかった。しかし、日記からは、福島の出入橋付近に持っていた貸家が全焼してしまったことがわかる。大火は櫟原家にも大きな被害を与えたのである。また、長女ふじの友人山瀬に電報を打つ、専助(櫟原家の奉公人か)を善導寺に遣わすなど、知り合いの安否の確認に奔走している様子もうかがる。
なお、この記事からは、櫟原家が福島と市場(天満の青物市場か)に貸家を所有していたことが知られる。また、福島の貸家の状況を見に行かせるなど、櫟原家が手伝職(建築現場で熟練度の低い補助的作業を行う職人)の伊三なる人物と密接な関係をもっていたこともうかがえる。こうした複数の貸家を経営し、特定の職人と固定的な関係(出入関係、得意関係)をもつ点は、櫟原家の大店としての姿を象徴していよう。
参考文献 | 『新修大阪市史』第6巻、大阪市、1994年 武谷嘉之「近世大坂における家作「手伝」職の仲間形成」『社会経済史学』65(1)、1999年 武谷嘉之「近世大坂における下級建築職人「家作手伝」の仲間組織―組・得意・「助方」―」『経済学雑誌』(大阪市立大学)102(2)、2001年 |