大阪大空襲

6代目新助(恒太郎)の最後の日記のうち昭和20年(1945)3月14・15日の記事。当時、新助は大阪の邸宅を長男敏雄に譲り、箕面で暮らしていた。

昭和16年(1941)12月8日の日本海軍機動部隊によるハワイ真珠湾アメリカ海軍基地への攻撃によって開戦したアジア・太平洋戦争は、当初こそフィリピン・マレー半島・インドネシアなどを占領、太平洋の島々にまで進出するなど日本軍が優勢であったが、昭和17年(1942)6月のミッドウェー海戦を機にアメリカ軍が主導権を掌握、日本軍はじりじりと後退していくことになった。昭和19年(1944)6月にマリアナ諸島を失ってからは、ここから飛び立つアメリカ軍の長距離爆撃機B29によって日本本土が空襲にさらされた。

空襲がとくに激しくなったのは、大都市に対する夜間低空からの無差別大量焼夷弾攻撃が始まった昭和20年3月以降である。3月10日未明の東京大空襲に続いて、同月14日午前0時前から3時過ぎにかけて大阪が大空襲をうけた。297機のB29が来襲し、1732トンの焼夷弾が投下され、府警察局の調べでは全焼13万戸余、半焼1300戸余、死者4000人弱、行方不明600人余、罹災者50万人余の被害が出たとされる。

日記からは、14日に新助の息子貞雄が、翌15日に新助自身が大阪へ出向き、神崎町、船場御堂筋、松屋町の全滅した様子を見てきたことが記されている。ただ、十二軒町にある櫟原家の貸家は無事だったようである。また、知り合いであろうか、焼け出された秋田なる者の親子に部屋を貸したともあり、日記からもこの空襲の恐ろしさがうかがえる。なお、14日の記事に「凡九十数機編隊ニ而来襲」とあるのは、大本営発表によるものと思われる。

参考文献

『国史大辞典』第8巻、吉川弘文館、1987年

『新修大阪市史』第7巻、大阪市、1994年