改暦(太陰暦から太陽暦へ)

2冊とも4代目新助(定治郎)の日記。明治5年(1872)12月1日から同6年(1873)1月29日までの記事のうち関係箇所を抜粋した。後の表紙(「毎日日記帳」「日々用事并贈答控」)が本来の表紙で、前の表紙(「日記簿」)は6代目新助(恒太郎)が付けたもの。

明治5年11月、政府はそれまでの太陰暦を廃止し、太陽暦を用いるよう命じ、同年12月3日を明治6年1月1日にすると定めた。日記には、これにより櫟原家では12月1日に餅つきを行い、試餅(手ごろな大きさにちぎり黒砂糖をはさんで二つ折りにした餅)や善哉(ぜんざい)を櫟原家の借家人や向かいの「伊勢喜」(人名)へ配ったこと、家内で昼食に善哉を食べたことなどが記されている(※)。また、1月1日(本来ならば12月3日)には、区長として府庁へ赴き、知事や参事、権参事へ年頭の挨拶を行っている。なお、この段階の大阪市街地は北大組・東大組・西大組・南大組の4つの大組に分けられ、各組内には複数の町をまとめた区が設けられていた。組の代表者が総区長、区の代表者が区長である。新助は東大組の区長を勤めていたと思われる。

これらの記事からは太陽暦への転換がスムーズに進んだかのような印象をうけるが、1月16日には再び餅つきを行い、もともとの元旦であった1月29日には、神武天皇陵の遥拝、氏神への参詣を行い、円照寺の住職も年頭礼のため櫟原家へやって来ている。「今日は旧暦(太陰暦)の元日にあたるので、町々の商店の大半が休んでいる」とも記されており、少なからず混乱が生じた様子がうかがえる。

※蒸籠を借りた「近安」は南久宝寺町に住む近江屋安兵衛のことで、3代目新助の妹や娘の嫁ぎ先である。

参考文献

『大阪府布令集』第1巻、大阪府、1971年

『新修大阪市史』第5巻、大阪市、1991年

『京都暮らしの大百科』淡交社、2002年