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吉岡美國(1862.9.26-1948.2.26)
関西学院第二代院長。町奉行所属の同心で代々浄土宗の家であった父銕次郎(美種)、母幾久子の長子として、京都市に生まれる。幼名は岩三郎。欧学舎の支舎であった英学校でC.ボールドウィンから英語を学び、同時に立成校で和・漢学を学び、両校の合併により創立された京都府中学校の卒業生となった。卒業後、工部寮(工部大学)への進学を希望したが、父の死亡で果たされず、助教諭として母校で5年間務めた。1885年、ボールドウィンの紹介で、神戸居留地にあった兵庫ニュース社に勤務、邦字新聞の翻訳などに従事。その間、西洋文化の輸入による日本思想・道徳の混乱に心を砕き、西洋文化の根底に横たわるキリスト教に関心を持ち、86年、神戸に着任したばかりのJ.W.ランバスと出会い、88年3月4日、山二番館の神戸中央教会仮礼拝堂で、長谷基一、坂湛とともに受洗。アメリカ・南メソヂスト監督教会日本宣教部の定住伝道師として神戸中央教会(現、神戸栄光教会)に任を受ける。89年の原田の土地取得に際して、長谷、坂とともに土地所有権者となった。W.R.ランバス、幹事中村平三郎らとともに大分で伝道活動を行っていた同年12月31日、S.H.ウェンライトを教師とする大分南メソヂスト監督教会の除夜会の説教で大分リヴァイヴァルを体験した。
1890年、神学部教授に就任、同年、アメリカ・テネシー州ナッシュヴィルのヴァンダビルト大学神学部に入学し、92年卒業。同年9月に第2代院長に就任。以来1916年まで院長を務める。同年、名誉院長となる。07年にはアメリカのエモリ・アンド・ヘンリ大学より名誉学位を授与される。「高い風格のある武士的東洋的教養にキリスト教的訓育を加えて無言の感化」を与える「慈父」として、「敬神愛人」を唱え、関西学院発展の基礎を固めた。著書に「国民道徳講義草稿」が残されている。(「関西学院事典」より)